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No man can lose what he never had. (Izaak Walton)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Loss の中で、次の文が私を惹きました。

    I've lost one of my children this week.

    Joseph Turner (1775-1851) British painter.
    His customary remark following the sale of one of his paintings
    Sketches of Great Painters, (E. Chubb)

 
 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の Loss の セクション に記載されていた引用文は 8篇 存 (あ) ったのですが、すべての引用文は私の興味を惹かなかった──本 エッセー で扱うために、強いて選んだのが上記の引用文です (苦笑)。私が使っている もう一冊の引用句辞書 The International Thesaurus of Quotations (Crowell 社) には Loss に関する引用句は 13篇 記載されていて、いずれも思考を促す seminal な引用文なので Crowell 版から引用しようとも思ったのですが、本 エッセー では当初から Bloomsbury 版を使ってきているので、引用の継続性・一貫性という点を考慮して、不本意ながら Bloomsbury 版を使います。

 さて、ジョセフ・ターナー 氏 (画家) の この引用文は、難しい語を使っていないので、簡単に意味がわかるでしょう──その意味は、「私は、今週、わが子の一人を失った」 と。画家や作家であれば、この気持ちを共有できるのではないかしら。芸術家であれば、自らが納得する作品を制作することに専念して、自らの意に沿うような作品を作り続けていきたいのだけれど、芸術家と云えども(富豪の パトロン が援助していなければ) 生活費を稼がなくてはならないので、作品を不本意ながらも セールス しなければならない、作品の そういう セールス は まるで 「わが子を失う」 ような気持ちなのでしょうね。こういう気持ちは、芸術家でない私のような庶民でも実感がないけれども難なく想像できる。
 ちなみに、ジョセフ・ターナー 氏の作品のなかで私が知っているのは 「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦 テメレール 号 (1838年、ナショナル・ギャラリー 蔵)」 です──いわゆる 「印象派」 風の作風を私は好きです、ただし、ターナー 氏の画風は数回変移しているので、この画風を以て彼の作風とは言い切れない。

 ただ、私が この引用文を読んで すっきりと納得できなかった点があって、引用文の註釈に記述されている His customary remark following the sale of one of his paintings のなかの customary remark という ことば が私の気持ちを興醒めにしたのです。Customary の意味は、OXFORD Advanced Learner's Dictionary によれば it is what people usually do in a particular place or situation です (日本語訳では、「慣習 (慣行、慣例) の」 という意味でしょう)。ターナー 氏は、手元にあった主要作品をすべて国家に遺贈したので、彼の作品の多くは ロンドン の ナショナルギャラリー や テート・ギャラリー で観ることができるそうです (Wikipedia からの情報)。ターナー 氏は 当初約 20年間 有力な パトロン に恵まれていたそうなので、貧乏な芸術家という訳でもなかったようですね。彼の伝記を読めば、引用文のような言 (customary remark) が出てきた理由もわかるのでしょうが、私には そうするほどまで この ことば について興味はないです。

 ターナー 氏ほどの才がない凡人の私ですが、私事を云うならば、私は かつて出版してきた拙著 (9冊) には 全然 愛着がない、それらの拙著が私の書斎 (拙宅の隣の アパート [ 3DK ] を借りて、書斎・書庫にしているのですが) の書棚には置いていないし、床 (ゆか) のうえに平積みされた多量の書籍のなかに混ざって存るはずですが、9冊が揃って (一通りに) 存るかどうかも心許ない── ターナー 氏のような芸術家に比べて、私のような程度の凡才が執筆した書物など 所詮 愚著であって取るに足らないと云われれば その通りなので返す ことば がないのですが、それでも自説を公にした執筆者として言うならば、執筆しているあいだは一所懸命に執筆していますが、書物は出版した時点で過去の物であって、過去の物には愛着など覚えない。出版後に執筆者が考えていることは、「(脱稿した説を起点にして、) 次に どのように この説を拡充していくか」 ということなのです (他の著者のことはわからないけれど、少なくとも私は そう考えています)。この点について、三島由紀夫氏は次の興味深い文を綴っています (「『われら』 からの遁走」)。

    過去の作品は、いはばみんな排泄物だし、自分の過去の仕事に
    ついて嬉々として語る作家は、自分の排泄物をいぢつて喜ぶ狂人
    に似てゐる。

 私は、彼の この言に まったく同感します。
 私は、40歳から今 (68歳) まで、モデル 論を一筋に探究してきました──拙著で云えば、「生産性を 3倍にする RAD による データベース 構築技法」(1995年) から 「SE のための モデル への いざない」(2009年) までの拙著 5冊のなかで扱っている技術は、モデル 技術ただ一つです、そして それらの拙著を読めば、当初 「T字形 ER法」 と称していた技術が モデル TM へと変貌 (改良・拡充) していく過程が はっきりとわかる。モデル TM は、現在、バージョン 3.0 (TM3.0) です── TM3.0 については、近々 (来年?) 出版するつもりです。

 書物を執筆したいという意欲が、 「いざない」 を出版した後で、私には消え失せてしまった──その理由は、モデル TM が完成したということではなくて (モデル TM は 現在 バージョン 3.0 ですが、私の頭のなかでは バージョン 4.0 の構想 (体系) が浮かんでいて、今も拡充し続けているので、) 書物を執筆することが虚しくなったということです。書物を執筆するくらいなら、モデル TM を実地に使って ユーザ といっしょに仕事していたい。

 仕事をしていて いちばんに興奮するのは モデル 図を作成して その モデル 図から (ビジネス 上の) 種々様々な工夫 (あるいは、不備) を読み取ったとき、まさに そのときです。このときの興奮は、モデル TM について新たな工夫 (あるいは、拡張すべき技術) の着想を得たときの昂 (たか) ぶりに等しい。私は、モデル 技術について、セミナー および講演を数多く行ってきましたが、セミナー・講演では具体的・詳細な事例を話すことなどはできないので、実際の ビジネス 前提 (実 データ に付加された ビジネス 上の制約束縛、しかも これが ビジネス の決め手になっている) を いくつも除外して、聴衆の目に 「それらしさ」 の幻を見せることになるし、実例を一般化して幻 (概念) を見せることが巧く ハマったときの気持ちのよさは セミナー・講演の後でも尾を引く、無駄な優越感が ここにはじまる──大ざっぱな例を まるで 或る 「具体的な如く見える」 例と思い違いして、「オレ は技術を知悉 (ちしつ) している」 と思い上がる。この思い上がりを避けるには、エンジニアは壇上を降りたら急いで実地の仕事に還って、そこで技術を取り戻すべきです。この現象は、書物を執筆するときにも そのまま当てはまる。私は、執筆しているとき、一所懸命になっているけれど、心のどこかでは 「オレ は、嘘をついている (書物として ページ 数が限られているとはいえ、わかりやすくするために、『事実』 を曲げている)」 という後ろめたさを今まで感じてきました。この虚しさが私を執筆から遠ざけてきた理由です。おそらく、今度 出版する拙著も その感を拭えないでしょうね。その意味においてならば──「ありてい (ありのまま)」 を失うという意味においてならば──、私は、I've lost one of my children という気持ちを共有できる。

 
 (2021年 9月 1日)

 

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