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It is impossible to love and be wise. (Francis Bacon)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Love の中で、次の文が私を惹きました。

    Love me, love my dog.

    Proverb.

 
 Love の セクション には、152篇が引用されていて、それらのなかから いくつかを選ぼうと思ったのですが、テーマ が テーマ だけに それらの それぞれの篇は どれも一考に値するものばかりなので選択を諦めて、最初のほうに記載されていた諺の一つだけを選びました。「愛」 は 「生」 「死」 とならんで、ギリシア 時代から今日 (こんにち) に至るまで最も語られてきた テーマ ではないかしら。「愛」 も 「生」 「死」 も、哲学的・形而上的に どれほど精巧に語られようが、我々がそれらを感じるのは感性的現象(時空のなかで形をとって現れる現象)として個々の事態のなかでしか語り得ぬ現象なので、(文献として遺っている) ギリシア 時代から今日に至るまで、生きた人の数に等しい それぞれの 「愛」 が存ったのだし、今後も決して語り尽くされることのない テーマ でしょうね。それゆえに、「愛」 を語るとなれば私生活を濃厚に晒すことにもなるので──個人の知的生活を晒すぶんには私は やや抵抗を感じても晒すことについて それほど躊躇いはしないけれど、「愛」 に係わる事態を晒すのは好しとしないので──、本 エッセー では、個人的・具体的な事柄を なるべく棚上げにしますので、ご了承を。

 さて、引用文の意味は、「私を愛して、私の犬を愛して」 ということで、この意味は日本語の諺 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」 の逆になっていて、「私のすべてを愛して」 ということでしょうね。「愛」 については、「Love me, love my dog.」 と言うことなど無駄なことであって、標題に引用した ベーコン 氏 (哲学者) の ことば が語っているように、感情に引きずられて理性を喪ってしまうのが常態ではないかしら (私の過去の恋愛を振り返って そうだし、おそらく たいがいの人たちも そうではないかしら)。逆上せた恋愛では、次第に恋愛の熱も冷めて落ち着いたときに、当時の恋愛を多少は恥じることもあるだろうけれど、恥じて過去が消える訳でもない (私にも恥じ入ることが いくつも 記憶にのこっている)。しかし、当時、恋に陥ったことは事実なのだし、そして それを恥じて消し去ろうとしても できないのであれば、「あの状態も私であった」 と思うほかはないでしょう。寧ろ、一時 (いっとき) であれ、己れを忘れて恋する人がいたというのは尊い体験ではないか。映画 「Love Story」 のなかで有名になった次の セリフ を私は大好きです── Love, love means never having to say you're sorry (愛、愛は決して後悔しないこと)、68歳にもなった初老が そんな ことば を好きだなんて嘲笑われてしまいそうだけれど、私は自らを偽ることができない。この ことば に似た ことば を近松門左衛門の作品から引用すれば、もっと高尚に響くかしら www ──「男も女も、恋といふもの、身をかばうてなるものか」(「娥歌かるた」)、私は この ことば が大好きです (昔 (20歳代) の恋愛を思い出すので)。打算のない恋愛を若い頃に体験した人は幸いだと思う。恋をする前と恋をした後では──それが得恋であれ失恋であれ──、自らの性質は きっと変容しているはずです、それが打算のない恋愛であれば。ゆえに、「戯れに恋はすまじ」 (ミュッセ)。

 Love は、なにも 恋愛に限ったことではなくて、夫婦愛・親子愛・愛校心・愛社心・愛国心や神への愛など多種にわたるので、一概に語ることなどできやしない。だから、私は恋愛について先ず触れてみたのだけれど、他の愛については本 エッセー では割愛します。ただ、神への愛について、アウグスティヌス・モンテーニュ・パスカル を読んでみて、彼らの考えかたに惹かれてはいるのだけれど、それぞれ 一つの思想として私の中に入って来ない──その理由は、私には キリスト 教が実体験になっていないからでしょうね。私は、聖書 (New testament、新約聖書) を いくどか通読しているのですが、あくまで西洋思想を学ぶために読んだのであって、信仰のためではない。昔、知人の米国人 (女性) が言った次の ことば を私は実感できなかった──「宗教体験を共有できる人 (男性) でなければ結婚できない」、彼女は或る男性から求婚されたのですが結婚しなかった、結婚しなかった理由は、宗教体験を共有できなかったということでした、その理由を聞いたとき あなたたちのどちらかが妥協すればいいではないかと私は思ったのですが、信仰の篤い人たちにとっては そう簡単なことはないようですね。

 私が大学生の頃に読んだ スタンダール 氏の 「恋愛論」 のなかに次の文が存った──「恋愛はみずから鋳造した貨幣で支払われる唯一の情熱である」。スタンダール 氏の 「恋愛論」 は、彼の述べた 「結晶作用」 説が有名ですが、私は、引用した文のほうを気に入っています。恋愛では、その相手は(似た性質であれ、相互補完する性質であれ) つり合う品性であれば成就するのであって──そうでなければ いずれ破綻するので──よい相手と結ばれたいのであれば、自らが それに相応しい品性でなければならないということでしょうね。当時 恋愛中だった私は、「結晶作用」 説など どうでもよくて、この文に惹かれていた。恋愛中の男というのは、男が女に惚れたのであれば、たいがい不安 (あるいは、時には猜疑) に駆られている、そして普段は読みもしない恋愛についての書物を読み漁る www. 恋愛に対して真摯に向きあう。相手の言動について敏感になる、そしてそれについての 「意味」 を考える。惚れたら悧巧になるようですね──「愛情を孕んだ理智は、覚め切って鋭いものである」 (小林秀雄)。他人を生で これほど身近に観る体験なんて そうそう 有りはしない。そして、恋愛中は会話の ことば の もどかしさを痛感する。恋愛は逆上せた感情であるなどと云う人たちもいるけれど、私は そうは思わない、我を忘れて恋をすればいいではないか、そのとき 眼や耳は (世間が云う痴情などとは程遠い) 本能的に恐ろしいくらい鋭敏になっている、恋愛は──それが真摯なものであれば──、文学者・思想家を生むと言ってもいいのではないか。

 
 (2021年 9月15日)

 

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