Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Love And Death の中で、次の文が私を惹きました。
Love is my religion - I could die for that.
John Keats (1795-1821) British poet.
Letter to Fanny Brawne, 13 Oct 1819
'Tis said that some have died for love.
William Wordsworth (1770-1850) British poet.
'Tis Said that some have Died
「愛」 の形というのは、生まれて死んでいった人の数に等しい数が在ったし、そして 現在 生きている人の数に等しい数が在るでしょう。「愛」 は、ほとんどの人たちの人生のなかで見られる現象でしょうね──「愛」 の形は、親子愛・家族愛・恋愛・愛校・愛社・人類愛・神への愛など様々な形にて現れて、およそ 「愛」 の微塵もない人などいないのではないか。そして、それぞれの 「愛」 は、それが成就しているときには その印象として 「幸せ (満たされて充実している生活)」 という点では似ているので、「愛」 の渦中にいる人にとっては 取り立てて 個々の 「愛」 を語ることなど敢えてしない (それでも、それを語りたがる人はいるけれどね www、きっと自己顕示欲が強い人なのでしょうね)。しかし、「愛」 の現れた形が 「幸せ」 として単に似ているという理由を以て すべての 「愛」 は同じであると見なすのは愚かな判断でしょうね。われわれは様々な思いで愛する、そして 「愛」 が充実した絶頂では、そのままの [ 絶頂の ] 状態で自らが亡くなってしまいたいと志向するのを私はわかる気がする。有島武郎氏が 「愛」 について語った エッセー 「惜しみなく愛は奪う」 のなかで次の文がある──
愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし愛の本体は惜しみなく
奪うものだ。
そして、彼は、そのあとの考察において、次の文を綴っています──
彼れが死ぬことは私が死ぬことだ。殉死とか情死とかはかくの如く
して極めて自然であり得ることだ。(略) もし私の愛が強烈に働く
ことができれば、私の成長はますます拡張する。そしてある世界が
──時間と空間をさえ撥無するほどの拡がりを持ったある世界が──
個性の中にしっかりと建設される。そしてその世界の持つ飽くこと
なき拡充性が、これまでの私の慣習を破り、生活を変え、遂には
弱い、はかない私の肉体を打撲するのだ。破裂させてしまうのだ。
愛が完うせられた時に死ぬ。即ち個性がその拡充性をなし遂げて
なお余りある時に肉体を破る、それを定命の死といわないで何所
に正しい定命の死があろう。
「愛」 が語られるときには、たいがい 「不幸な (破滅した) 愛」 が多いのではないか──勿論、ハッピーエンド の愛も それが数々の苦難を乗り越えて成就したのであれば人目を引くので われわれの話題にはなるけれど、古来 「悲劇的な」 結末のほうが われわれの同情を引いてきた。われわれの身近で話題になる 「不幸な愛」 というのは親子愛・家族愛・恋愛に関する愛ではないか、そして それらの 「不幸な愛」 の最たる形が 「愛のために死ぬ (die for love)」 という形でしょうね、「愛のために死ぬ」 ことに対してわれわれはその渦中にいた人たちを同情し やりきれなさを感じるけれど、ひょっとしたら、渦中にいた人たちは われわれの想いとは違 (たが) い、「愛」 の絶頂にて逝くことを嬉嬉としていたのではないか──勿論、無念を感じた人たちもいたでしょう、自らの 「愛」 を死を以て閉じることに対して。そのときの気持ちは、その事に直接関係した人にしかわからないでしょう、愛が固有であれば他人はそれを判断 (批評) する尺度を持っていないはずです、われわれは、愛に対して興味本位の憶測は慎むべきでしょうね。
さて、引用文は、いずれも、詩人のものです。古来、「愛のために死ぬ」 という テーマ は数々取りあげられてきて、名作が多い。名作といえども、文学作品であるからには、実生活とは異なる世界での話です。しかし、「文学青年」 気質の私は、それらの作品に強く惹かれる。私は 68歳です、初老にもなって──すでに長い実生活を送ってきたのに──、若者が読むような恋愛物に惹かれるなんて、脳天気すぎると嘲笑われるかもしれないけれど、好きな作品を好きとしか言いようがない。そして、そういう読み物を好む人物は、実生活のなかで少し浮いている──その自覚を私は ちゃんと持っている。しかし、愛について涙を流したことに応じて生活 (精神生活) は豊かになると私は信じています。勿論、そんなものは一銭にもならない。貧乏な私は、貧しい生活を忘れるために、過去の恋愛の思い出に耽 (ふけ) っている訳ではない──私は、思い出のなかに生きたくはない。今を今として生活しているつもりです──そして、そういう一日一日が積み重なって、今の じぶん がある。そういう生活のなかで、我を忘れて恋愛をしたという状態も 私である [ 私であった ] ということは事実として否定のしようがない。
「愛のために死ぬ」 というような極限状態になったとしても、私は きっと 死を選ばないと思う。それほどに私は私自身を重視しているのは確かでしょうね。「愛」 という テーマ を離れて、私が好む作家 (小説家) の名を挙げてみれば、いずれも自殺した作家です──有島武郎、芥川龍之介、三島由紀夫、川端康成 (私が愛読する作家 (批評家) で自殺しなかったのは、小林秀雄・亀井勝一郎です)。それらの作家の小説を読み込んでいれば、当然、なんらかの形で私の思考にも影響を与えているのは確実でしょう、しかし 私は自ら自分の生命を絶つことを選ばない。ゆえに、「愛のために死ぬ」 ということも選ばない──ただし、戦争が起これば (日本が戦争する確率は現時点では極めて ゼロ に近いのですが)、私は家族を守るために戦地に赴くでしょうね (私の年齢を鑑みれば、そういうことは起こり得ないのですが、もし 私が青年であれば きっと そうするでしょう)。「愛のために死ぬ」、私は この大事を見事に空想的に実行することは老齢となった今では きっと起こらない。私は頑固に自分の今の存在に執着するでしょう。そうするのが私の性質に適するからであるというほかには なんらの理由はない。
(2021年10月 1日)