Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Love And Hate の中で、次の文が私を惹きました。
Oh, I have loved him too much to feel no
hate for him.
Jean Racine (1639-99) French dramatist.
Andromaque, Ⅱ:1
If one judges love by its visible effects, it
looks more like hatred than like friendship.
Duc de la Rochefoucauld (1613-80) French writer.
Maximes, 72
「愛と憎しみ」 については、古来、文学・哲学において数え切れないほど語られてきたし、今後も語り尽くされることはないでしょうね──なぜなら、それは個々人の感性的 (感覚的) 現象だから。「愛と憎しみ」 が人性として どれほど形而上にて語られても、それを感じる──それが現れる──のは、或る [ 特定の ] 時間・空間のなかでの感性に訴える現象なのだから。「愛と憎しみ」 について記述した書物のなかで──勿論、私が読んできた数限りある書物のなかで、という意味ですが──次に引用する ロマン・ロラン 氏作 「魅せられた魂」 のなかの文は、私に生々しい・忘れがたい印象を与えました──
愛するひとびとや、憎むひとびとにとって、精神は肉体である。
精神は互に嗅ぎ合い、噛み合い、触れ合い、暴力を加え合い、
爪と歯で引き裂き合う。
愛と憎しみは一体であるとは古来云われてきたことですが、「愛して憎む、憎んで愛する」──そうなるのが どうしてなのか私にはわからないけれど、若い頃の恋愛を振り返ってみれば、そのように感じ、当時は苦しむばかりだった記憶がのこっている。激しく愛した [ 愛し合った ] 相思の恋が成就しにくいのは、愛すれば愛するほどそれに呼応して憎しみが生まれ、愛と憎しみが次第に増幅して、愛することから始まった結末が苦しみになるがゆえなのかもしれない。冒頭に掲載した引用文の二つ (ラシーヌ 氏と ラ・ロシュフコー 氏) ともそのことを語っているのではないか。そうだとすれば、憎まれるに値しないような人に対しては、激しい愛は 毛頭 生まれないというのは逆説ではないでしょうね。
「愛することは、いのちがけだよ。甘いとは思わない」(太宰治、「雌について」)。私は太宰氏の作品を嫌いなのですが、この ことば には惹かれる、私の 「文学青年」 気質が否応なしに反応する。近松門左衛門の ことば にも惹かれる──「男も女も、恋といふもの、身をかばうてなるものか」(「娥歌かるた」)。私は、たぶん、破滅を好む性質なのかもしれない。そして、惚れやすい性質なのかもしれない (ただし、熱しやすく冷めやすい性質ではない)、日常生活の持続性と恋愛の劇的性質は両立しないというのは、たぶん、そうなのかもしれない。しかし、恋愛のせいで腑抜けになるような ヤツ は、恋愛をしなくても遅かれ早かれ腑抜けになる、ただ 恋は思いのほかに ぐんぐんと増幅していくものであって、おっかないものだと思う、その熱量に耐え得るのは青年のときであって、壮年以後になって恋の病を患えば それまでの生活の持続性を破壊するほどの感情の高ぶりに流され溺れ重症になる危うさが高い。そして、青年のときの恋愛は、往々にして徒花 (あだばな) であるのかもしれない、それでも不幸な恋であっても我を忘れて他人を愛するときは──「愛して憎む、憎んで愛する」 ことは──元来決して個性的には成り得ない単調な生活に於いて たとえ一時の夢であったとしても熱い辛い妖夢を見させてくれるのではないか。やがて 壮年になれば、そういう夢をみる暇など喪ってしまう、、、いわゆる 「大人 (おとな) に成り切れなかった」 (それは文学を耽溺したがゆえに世間知らずのまま年老いたのか、あるいは世間知らずであるがゆえに文学を耽溺したのか わからないけれど) 「文学青年」 気質の私は シラー 氏 (詩人) の次の ことば を愛しています (勿論、憎しみもふくんで)──「生きるとは、夢みることだ。 賢明であるとは、 .....こころよく夢みることだ」 と。青年の激情 (愛と憎しみ) が女性を絡めて社会に向かったときの様 (さま) を的確に描いた文学作品として 「若きウェルテルの悩み」(ゲーテ 作) を私は若い頃に愛読してきました──そして、老年となった私 (68歳) は、この書を封印しています、この書物を 今 読めば、眠っていた野獣を今さら覚醒させることになるので、、、。
(2021年10月15日)