Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Luxury の中で、次の文が私を惹きました。
The saddest thing I can imagine is to get
used to luxury.
Charlie Chaplin (Sir Charies Spencer C.; 1889-1977)
British film actor.
My Autobiography
In the affluent society no useful distinction
can be made between luxuries and
necessaries.
John Kenneth Galbraith (1908-2006) US economist.
The Affluent Society, Ch. 21
How many things I can do without!
Socrates (469-399 BC) Athenian philosopher.
Examining the range of goods on sale at a market
Lives of the Eminent Philosophers (Diogenes Laertius), Ⅱ
Luxury の意味は、次のとおり (New Pocket Oxford Dictoinary )──
1. comfortable and expensive living or surroundings: a live of luxury.
2. an item that is expensive and enjoyable but not essential.
それぞれの引用文の意味は、次のとおり── 1番目の引用文は 「私が想像できる最も哀れなことは、贅沢に慣れることである」、2番目は 「豊かな社会においては、贅沢品と(生活)必需品を区別する有用な方法がない」、3番目は 「私には持っていなくてもやっていける (無くても済ます) 物が どれだけ多いことか!」。
「贅沢」 という状態は、必要以上に金銭を費やすこと、分に過ぎた奢り、したがって物事が必要な限度を超えていることを云い、「必要以上 (not essential)」 であるという判断は need を尺度に置いているので個々人によって違うのは当然でしょうね。或る物事が或る個人の生活のなかで luxury なのか、それとも或る個人の生活が他人の生活と比べて luxury なのかによっても、luxury の中身は違ってくるでしょう── Galbraith 氏の言うように、「豊かな社会では、贅沢品と必需品を区別する難しい」。Socrates の引用文と Galbraith の引用文のあいだには、年数の隔たりが 2,450年ほど存る── Socrates が生存した紀元前 450年くらいから Galbraith が生存した紀元後 2000年に至るまでのあいだ luxury が意識されてきたというのが事実ですね。
人類の歴史を観れば、人々は いっそう豊かになることを願って社会を進歩させてきたので、豊かになること自体は悪いことではないのではないか。ただ、豊かになっていくなかで、その弊害も人々は感じてきたのでしょう、だから、(「贅沢」 を戒めるように) 「足るを知る」 とか 「節度」 という訓諭も言われてきたのでしょうね──光あれば影あり、ということなんでしょうね。
さて、私は自らの生活に関して 「贅沢」 であることを感じてきたか、、、それに対する私の応えは 「わからない (判断できない)」 でしょうね。私は昭和 28年 (1953年) 生まれで 今 68歳です、戦後 (1945年) 10年たっていない。私は、海辺の寒村で生まれたので、当時は村全体が豊かという状態ではなかった。それでも、当時の人たちは、戦後の復興のなかで生活がしだいに豊かになっていき──家電の白黒 テレビ・洗濯機・冷蔵庫 (これらは 「三種の神器」 と 当時 云われていましたが) などが普及していき──、そういう家電を初期の頃に買うことができた人々は 「贅沢」 であったけれど、そういう家電が普及すれば もはや 「贅沢」 はなくて普通の家電になっていった。その後にも、掃除機・エアコン・自家用車なども同じように社会に受け入れられた。Galbraith 氏が言う 「豊かな社会では、贅沢品と (生活) 必需品を区別する難しい」 というのは、こういうことなのでしょうね。
いっぽうで、私の意識のなかでは、テニス や ゴルフ は 「贅沢」 であるという bias (先入観) が歴然と存る──テニス や ゴルフ をやるだけの金銭的余裕が私にはあるにもかかわらず。たぶん、私の意識のなかでは、そういう スポーツ は、生活を送るうえで必需品ではないと思っているのでしょう。しかしながら、私は、文学作品を 多数 読んできている──文学作品など生活を送るうえで必需品ではないのもかかわらず。われわれは──「われわれ」 と言ってはいけないのでしょうね、「私」 というべきなのでしょうね──、興味を抱いていないことについて、それをやったことがないくせに悪口を言う (あるいは、嫌う) という性質があるようです (または、自分のやっていることのほうが ヨリすぐれていると思い込む傾向があるようです)、自分の恋人が一番に可愛いという妄想と同じですね (苦笑)。
私は、自らの生活が 「贅沢」 なのかどうかをわからない、、、私は 「引きこもりの下流老人」 であるというふうに仲間内では自嘲していますが、それでも生活を不自由なく送るだけの収入がある。ただ、私がかつて読んだ ジード (小説家) の 「日記」 のなかで、次の文が強烈に私の心に刻まれています──
富んでいるひとびとからの軽蔑に堪えることは、私には容易である。
だが ひとりの貧窮者のまなざしは私の心を深く貫く。
(2022年 1月 1日)