Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Lying の中で、次の文が私を惹きました。
The boy cried 'Wolf,wolf' and the villagers
came out to help him.
Aesop (6th century BC) Reputed Greek writer of fables.
Fables, 'The Shepherd's Boy'
Unless a man feels he has a good enough
memory, he should never venture to lie.
Michel de Montaigne (1533-92) French essayist.
Also quoted in Le Menteur, Ⅳ:5 by Pierre Corneille (1606-84)
Essais, Ⅰ
There was things which he stretched, but
mainly he told the truth.
Mark Twain (Sanuel Langhorne Clemens; 1835-1910)
US writer
The Adventures of Huckleberry Finn, Ch. 1
引用文の 1番目は、イソップ 寓話のなかの 「オオカミ 少年」 (嘘つきの少年) からの引用文です──羊飼いの少年が退屈しのぎに 「狼が来たぞ、狼が来たぞ」 と ウソ を言って村人を いくどか欺していたら、少年は ついに村人から信用されなくなって、狼がほんとうに来たときに村人から相手にされず少年は狼に食べられてしまった、という寓話です。この寓話を元 ネタ にして普段の会話でも、ウソ をくり返す ヤツ の代名詞として 「オオカミ 少年」 という言いかたが ときどき 使われていますね。この引用文を読んだときに、私の頭に最初に浮かんだ像 (image) は 「マスコミ」 (特に、A 新聞や T テレビ 局) でした。「マスコミ」 の報道が視聴率を稼ぐためなのかもしれないけれど、報道表現が ひどく大げさになってきたことに私は嫌気がさして 20年くらい前から テレビ 番組を (スポーツ を除いて) 観なくなった、そして新聞も虚偽・隠蔽・改竄がひどくて 6年くらい前から購読しなくなった。テレビ の ニュース は、短い尺のなかで報道しなければならないので映像を 「切り取り」 しなければならない、その 「切り取り」 (および、ニュース の当事者たちや当事者たちの親族・友人・知人に対して、記者がおこなう取材 インタビュー [ 質問 ]) が 「放送局の作った ストーリー に沿うように」 切り取られて編集される、「(テレビ・新聞が あたかも) 事件をつくっている」。
マスコミ は 「公共」 の機関であって 「『事実』 を正確につたえなければならない」 というような naive な言い草など私は 全然 信用していない──というのは、「事実」 には 「解釈 (あるいは、視点)」 が入るのは当然なのだから。ゆえに、マスコミ が自社の意見を述べることを悪いとは私は 毛頭 思っていない、私が嫌悪するのは寧ろ 自社の意見を 「公共」の機関という皮を被って報道している点です。この点は、専門誌と云われている雑誌でも同じ現象が観られる──ひとつの例を言えば、コンピュータ 専門誌が或る企業の IT 状況を報道した、その企業で私は コンサルタント として数年間 関与してきて、しかも 報道された事態について私は直接関与していました、(報道された) 記事と (実際の) 現場状況とのあいだには、違和感を覚えるほどに乖離していた (その企業の人たちも その報道が的外れなことを苦笑していました)。自らが関与している事態と報道記事を対比すれば、その事態のなかにいて内情を知っている人たちは、記事の的外れなことに苦笑する報道が多いのではないか。
「5W 1H」 (When, Where, Who, What, Why, How) の六原則が報道文の原則だと云われていますが、いいかげん こういう stereotyped な なんとかの一つ覚えはやめては どうか? 「5W 1H」 が有効なのは、たとえば、マーケット で大きな事件 (競争相手が先手の動きをしたときなど) があったときに、それに対応するために競争相手の動きを調査して、その調査情報を社内で共有するときでしょう。しかし、マスコミ が Why と How まで詳細に報道できる訳がない── Why と How は 「憶測」 が入る、自社の意見 (視点) が入るのは当たり前ではないか。では、マスコミ が When・Where・Who・What だけを報道すれば、どうなるか──そんな味気ない報道は、(「事実」 だけを知りたいと思っている人たちを除けば) 興味を惹く訳がない。だから、視聴者・読者を多く惹きつけるために、マスコミ は Why と How を仰々しく報道する (たとえば、「○○ の実態に迫る」 とか)──そして、その報道の論調が 「われわれは、社会的な 『正義』 を担っている」 という思いあがりの臭さが漂えば (記者は意図的にやっているかもしれないけど) なにをか況んや (特に、報道する記者の綴る文が、作品を創作する作家の文体を真似て、作家崩れの文体であれば、悪臭の極みでしょうね)。
引用文の 2番目の大意は、ウソ をつくには記憶力がすぐれていないとやらないほうがいい、ということですね──ウソ ついて、後になって、以前に言った ウソ と矛盾すること (ウソ がばれるようなこと) を言えば御里が知れるってこと。ウソ つきの必要条件は、記憶力がすぐれている性質なんでしょうね。詐欺師なんかは、この点では、たぶん スゲー 記憶力をもっているんだろうね、知らんけど。立派な大きな船も船底に小さな穴が開いていれば (穴を修復しなければ) 沈むよ www.
生まれてこのかた、ひとつも ウソ をついたことのない人は まず いないんではないか。日常生活においては、「ウソ つき」 とまでに罵られないほどの ウソ であれば、a white lie (罪のない ウソ) とみなされて、見逃されるのが多いでしょう。英和辞典 (「新編 英和活用大辞典」) の例文を読んでいたら次の例文を目にしました──
A white lie is sometimes better than a black truth.
この例文の意味は、「人の気持ちを傷つけないための ウソ は、ときとして ありがたくない真実よりもよい」──相手が自らの犯した過失・失敗などを後悔して落ちこんでいるときには、社交上、大人であれば こういう 「配慮」 をするのではないか。そういう 「配慮」 に対して、「ウソ をつくのはいけない、真実を言うほうがいい」 という当たり前なことを杓子定規に TPO を考慮しないで言うのは 「正直な人」 として評価されることは ほとんど ないでしょう (そういう人は寧ろ 思いやり・心づかい に欠ける人と非難されるでしょう)。そういうときに ウソ をつきたくなかったら、黙っているのが一番にいい。「真 (まこと) らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず」 という文は──なにかの書物で目にしたのだけれど、誰の綴った文だったのか私の記憶が曖昧です──たぶん 戦国武将が綴った文だったような記憶がのこっているけれど、まさに この例文と似たようなことを言っているのでしょうね。
引用文の 3番目の大意は、「彼は話を盛ってはいるが、大部分は真実を語っている」。われわれが日常生活で友人たちと しゃべっているときには、たいがい こういう状態ではないか──話の中身は ウソ をついていないが、「盛っている」。話を盛ることについて、私が 昔 (大学生の頃) 読んだ ゴーリキー の作品 「どん底」 に次の文があった──
奴ぁ、なんで嘘をつきやがるんだろう?──人間はみんな灰色の
魂を持っている、、、、だから、ちょっと紅 (べに) をさしたがるのさ、、、
私は、若い頃、文学書・哲学書を多読したけれど、年老いるにつれて、新たな文学作品を読まないで、かつて読んだ作品を再読することが多くなった。今振り返ってみれば、私は文学作品を人生の トリセツ のように思っていたのかもしれない、そして人生をわかったつもりになって社会 (および、そこで生活している人たち) を蔑んでいたのかもしれない。勿論、私が社会に出て仕事に打ち込むようになって、多くの書物から習得していた知識は自らの実体験のなかで修正され増補され整えられてきました。私一人の思考なんかでは、とても感得できない数多くの知見を書物は導いてくれた。そういう三位一体 (書物・私・社会という三位一体) のなかで、私が今強く認識しているのは、「真 (まこと) らしき嘘 (逆説もふくむ)」 こそが真実味をもっているということです。
(2022年 1月15日)