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Manners maketh man. Yes, but they make woman still more. (Samuel Butler)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Manners の中で、次の文が私を惹きました。

    Good breeding consists in concealing how
    much we think of ourselves and how little we
    think of other persons.

    Mark Twain (Samuel Langhorne Clemens: 1835-1910)
    US writer.
    Notebooks

 
    Politeness is organized indifference.    

    Paul Valery (1871-1945) French poet and writer.
    Tel Quel, Ⅳ

 
 引用文の 2つは、いずれも、マナー (作法・行儀) というのは、他人に対する無関心を以て構成されているということを言っていますね。確かに、親しくない他人に対しては、あたりさわりのない応対を われわれは 普段していますね。そして、この あたりさわりのない応対は、自分が相手に興味を抱けば、物理的にも心理的にも距離を縮めようと われわれはするでしょう──相手に興味を抱く前には、相手のことなど知ろうともしないで、相手と なんらかのやりとりをしなければならないとき、われわれは あたりさわりないやりかた (社会的 マナー) に外れないように振る舞うでしょう。

 自意識の強い人は、まわりの人たちの目を気にするようですが、そもそも 他人は自分に興味を抱いていないので、他人は自分を気にしていないというのが実態であって、それでも他人の目を気にするというのは 「自意識過剰」 と云われるのでしょう。私は、若い頃 (20才代の頃) から、他人のことなど興味がない自己中だったので、自分が好きになった人のほかは他人から自分がどういうふうに思われているかということなど気にしてこなかった。他人に無関心であれば、他人に対して マナー に従って応対するのが普通なのでしょうが、私の欠点は、マナー なんて軽視していたことでしょうね。だから、親しくない他人に対応するときに、自分独りでいるときと同じような振る舞いをしていて、他人を不快にしてきたことが多かった──そういうときには、たいがい 他人から次のように言われていました、「なんだ、あいつ は (礼儀知らずな ヤツ だな)」と。そう言われても、私は べつに気にする訳でもなかった。(そういう振る舞いをしてきて、私は、大事件 [ 今振り返ってみれば、私の人生を左右するほどの不作法をやらかした事件 ] を 数回 犯しています。ただ、それらの事の子細は、公にするのが憚られるので、ここでは記述しませんが。)

 寧ろ、私は、好きになった人には嫌われたくなかったので、好きな人たちに対して過敏なほどに マナー を守ったように思う。しかし、若気の至りと云うか、好きという高まる感情を抑えきれなくなって、相手に次第にのめりこんで、相手の気持ちを配慮する余裕など喪って、自己中な本性が暴発して、かえって相手に嫌われるという羽目に陥ったことが しばしば 起こった── 20才代・30才代の 「文学青年」 に有り勝ちがことであると云えば、そうなのかもしれない (当時の私は、「若き ウェルテル の悩み」 に共感して愛読していましたが、今では その書を 「意識的に」 封印しています、「意識的に」 封印しているということは、70才近くなった私には 「若き ウェルテル」 的性質が いまだに 生々しく存るということです)。

 自分が他人に対して興味をもっていないのと同じように、他人は自分に対して興味をもっていない、ということを実感するには、或る程度 年齢を重ねる必要があるのかもしれない。そんなことは、頭のなかでは、十分にわかっていたのですが、私は、60才代になって、やっと それを実感できるようになりました。そして、67才を過ぎてからは、自分の残りの人生を意識するようになって──平均寿命から判断すれば、私の残りの人生は 15年くらいしかない──、私の自己中な性質は、益々 助長するようになった。私の残りの年数は少ししかない、だから限られた時間 (年数) を割いてまで わざわざ 嫌いな他人と会う価値があるのかを考えるのは当たり前ではないか。

 
 (2022年 3月 1日)

 

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