Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Marxism の中で、次の文が私を惹きました。
Karl Marx wasn't Marxist all the time. He
got drunk in the Tottenham Court Road.
Michael Foot (1913-2010) British Labour politician and
journalist.
Behind The Image (Susan Barnes)
引用文の意味は、「カール・マルクス は、いつだってマルキスト (マルクス 主義者) ではなかった。彼は酔っ払って トッテナム・コート・ロードを歩いていた」。ちなみに、トッテナム・コート・ロードは、ロンドンの中心街の major road の一つです。
有名人には、世間で流布している印象が──それが良い評判であれ、悪い評判であれ──つきまとう。有名人の逸話には尾ひれがついて広まってしまうようですね。特に、天才の逸話などは奇行が強調されるけれど、「論理」 では 「強調の虚偽 (fallacy of accent)」(*) があるように、強調された逸話は往々にして 「盛りすぎている」 がために ウソ っぽい。さて、この引用文も、前後の文脈が わからないので、この文だけを読めば、「強調の虚偽」 に陥るでしょうね。引用文のなかの all the time が そもそも うさん臭い──マルクス が 年がら年中 まいにち (一日中) 酔っ払っていた訳がない。
天才にまつわる同じような逸話・伝説は、いっぱいある──モーツァルト は ウンコ の話が好きだったとか、ベートーヴェン は頑固 オヤジ だったとか、チューリング や ウィトゲンシュタイン は ホモ だったとか、ゲーデル は餓死したとか、そして アインシュタイン は スケベ だったとか、、、(これらの逸話は、天才たちの 「一面」 を大げさに噂しているにすぎないのですが) われわれ凡人とは桁違いにすぐれた天才であっても、われわれ凡人と同じ人間なんだ──あるいは、天才といえども、その性質は一面では われわれ凡人に比べて低俗なんだ、と。そんなことは当たり前のことであって、天才といえども、われわれ凡人と同じように日常生活を送っているのだから。天才の天才たる所以は、われわれと同じような日常生活を送っていながら、社会を変革するような思想・学説を編みだしたことでしょう。天才について、芥川龍之介の次の ことば を私は たびたび 引用してきたのですが、芥川龍之介の ことば は われわれ凡人の凡人たる所以を見事に撃ち抜いていると思う (「侏儒の言葉」)──
天才とは僅かに我々と一歩を隔てたもののことである。同時代は
常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里
の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。
後代は又その為に天才の前に香を焚いている。
私は、「楽屋裏」 の話をするのが好きじゃない──思想・学説を正式に公にする前の準備状態を披露して、いったい なんになるんだ? 天才の伝記を書く人とか 天才の ファン であれば、楽屋裏の話は 天才のことを もっと知りたいと思う気持ちから生ずるのだろうけど──その気持ちは、恋人のことを もっと知りたいと思う気持ちに似ているんだろうけど──、化粧している途中の顔や身支度を整えている着替え中の恰好を披露して嬉嬉としている ヤツ なんて下衆 (げす) ではないか、天才たちは そんなことを望んでいた訳などないでしょう、「私の作品 (思想・学説) を真っ直ぐに観てくれ」 としか思っていないでしょう。モーツァルト は放蕩な性質だったって? で、だから、なんなんだ、そんな放蕩な性質の ヤツ が最上級の音楽を つくったんだよ。マルクス が酔っぱらいだったって? だから、なんなんだ、そんな酔っぱらいが 「商品」 の性質を見事に明らかにしたんだよ。
(*) 「強調の虚偽」 とは、文中の或る語を強調することによって生じる虚偽のこと。たとえば、「友人に対して、ウソ を言う訳がない」 という文のなかで 「友人」 を強調すれば、友人以外であれば ウソ をついてもいいということになってしまう。
(2022年 4月 1日)