Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Mathematics の中で、次の文が私を惹きました。
As far as the laws of mathematics refer to
reality, they are not certain, and as far as
they are certain, they do not refer to reality.
Albert Einstein (1879-1955) German-born US physicist.
The tao of Physics (F. Capra), Ch. 2
There is no 'royal road' to geometry.
Euclid (c. 300 BC) Greek methematician.
Said to Ptolemy I when asked if there were an easier way to
solve theorems
Comment on Euclid, (Proclus)
Mathematics, rightly viewed, possesses not
only truth by supreme beauty -- a beauty
cold and austere like that of sculpture.
Bertrand Russell (1872-1970) British philosopher.
Mysticism and Logic (F. Capra), Ch. 2
引用文は、数学について、それぞれ、アインシュタイン と ユークリッド と ラッセル の ことば です──それぞれの人物は、物理学・幾何学・論理学に金字塔を打ちたてた天才たちです。引用文の英文は簡単なので、日本語訳はいらないでしょう。
さて、私は、40才から今 (もう直ぐ 69才) に至るまで、いわゆる 「数学基礎論」 を学習してきました。「数学基礎論」を学習した理由は、事業分析・データ 設計のための モデル 作成技術をつくるために必要だったからです。本 ホームページ を定期的に閲覧していただいている人たちであれば、私が青年期 (30才以前) には数学嫌いの 「文学青年」 だったことを知っていると思いますし、私が 「数学基礎論」 を学習しはじめた理由もわかっていらっしゃると思います。だから、本 エッセー で再び その学習の動機を延々と述べることはしない、ただ その動機を敢えて一言でいえば 「仕事で必要だった」 ということに尽きます。必要に駆られて学習した 「数学基礎論」 を今では私は好きになっています──私は数学者ではないので、「数学基礎論」 を好きだと言っても 勿論 専門家の熱意とは程遠いし、専門家のような専門知識を修めている訳ではない。私の有している 「数学基礎論」 の知識は、あくまで基礎知識です。「下手の横好き」 と云ったくらいの程度です。
「下手の横好き」 であっても──専門家としての学習研究ではないけれど──、30年弱も学習していれば、それなりに得るものはあった。ユークリッド の引用文が言っているように 「幾何学には王道はない」、幾何学に限らず およそ どんな学問であれ、系統立って地道に習得していくしかないでしょうね。学習をはじめた時には、なにがなんだか わからないまま入門書を とにもかくにも何冊も読んで、数学的技術を少しずつ習得していくしかない。その時の私の精神状態というのは、だだっ広い大海に投げだされて、どの方向へ泳いで行けば陸地に辿り着けるのかもわからないまま、溺れないように ただただ手足をばたばたしていたという状態です。自分の頭の悪さを痛感して、不安ばかりが募る──俺は いったい なにをしているんだろうか、、、と。でも、私のような程度の シロート でも、5年くらい学習を続けていれば、「数学基礎論」 の基礎の全体像が次第に朧気にわかってくる。「数学基礎論」 の学習の道は数々あるのでしょうが、私の辿った道は、次の道程でした──カントール の集合論、ZF の公理系、レーヴェンハイム・スコーレムの定理、タルスキーの真理条件、ペアノ の公理系、ツォルンの補題、原始帰納的関数と特性関数、ゲーデル の完全性定理・不完全性定理、チューリング の計算可能関数などです。連続体仮説には私は興味を示さなかった。この学習の道程を観れば、私の関心が 「一般手続き (計算可能性)」 に傾いていることがわかる。私の仕事は モデル 作成技術を作ることなので、それに役立つと思われる数学的技術に私の興味が向かっていたことがわかる。
私が 「数学基礎論」 を学習して得たことは、「構造」 (モノ の性質、モノ と モノ との関係、モノ から モノ を作る関数) の捉えかた および 「構文論と意味論」 (導出的な L-真と事実的な F-真) の厳正な峻別でした。社会風景や人間模様についての私の感想は情緒に流されやすい。だから、「文学青年」 気質の私にとって、数学的対象としての 「構造」 というのは順序と関係 (すなわち、関数) で構成するという技術を学んだことの意義は大きかった。「論理」 (Logic) では、ことば (文字) と意味 (値) は、1-対-1 の対応を基本としています、その前提のうえで、モデル の存在性が期待される──数学的には、「...の条件を満たす」 というのは 「...の モデル である」 ということなので、構文論的に無矛盾な構造のなかに意味論的に 「真とされる値」 が充足されることが要件となって、構文論が先で意味論は後になる。私は、年をへるにつれて、構文論重視の傾向が強くなった (正直に言えば、そして誤解を恐れずに言えば、意味論は お断りなのです)。引用文の 3番目が云っている 「数学には真理だけでなく崇高な美がある。彫刻のように冷厳な美」 というのを私のような数学の シロート には実感することができないけれど、ゲーデル の完全性定理 (「論理」 では、証明可能性 = 恒真) を私は学んで、「論理」 を使って組み立てた 「理論 (定理)」 には、ラッセル の言っている美が内包されているのが なんとなく わかる気がする (でも、悲しいかな実感はない)。
モデル 作成技術の仕事を離れれば、私は青年期の 「文学青年」 気質を大いに継承しています。そして、日常会話では、「論理」 を数学の証明式のように厳正に用いる ということはしない。というよりも、日常会話では、ことば は多義になっていて、「論理」 を厳正に組み立てるには熟考しなければならないのだけれど、会話しているときには熟考の余裕などない──日常会話は、不可逆的な流れのなかで継起するので。「論理」 は、あくまで 一つの記号は一つの意味しかもたないという清潔な前提の上に成立しているけれど、日常会話では (あるいは、文章でも) ことば が誘発する 「印象」 (すなわち、話し手に対して受け手が感じる 「印象」) が 「意味」 を覆っているので、純粋な論理形式というのは成立しにくい。ウィトゲンシュタイン の次の ことば を私は共感しています──
数学者とは、発明家であって発見者ではない。
(2022年 5月 1日)