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If we have our own why of life, we shall get along with almost any how. (Nietzshe)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Meaning の中で、次の文が私を惹きました。

    Where in this small-talking world can I find
    A longitude with no platitude?

    Christopher Fry (1907-2005) British dramatist.
    The Lady's Not for Burning Ⅲ

 
 Longitude の日本語訳は、「経度」。その対語となるのが latitude (緯度)、そして latitude にひっかけて platitude (決まり文句、独創性に欠けること、単調、平凡) を使っていると私は 「解釈」 しました。その 「解釈」 をとれば、引用文の意味は、「つまらない雑談のこの世界において、平凡でないような場所を何処に見つけることができるのか?」 ということかな。すなわち、そんな世間では、「有意味な・独創的な場所なんてない」 ということかな。

 「意味」 の捉えかたには、次の二つの考えがあります──

  (1) 意味の対応説

  (2) 意味の使用説

 「意味の対応説」 というのは、語は モノ を名指しするという説です──この 「意味」 のことを sense と云っています。「意味の使用説」 というのは、語の意味は文脈のなかで定立されるという説です──この 「意味」 のことを meaning と云っています。この二つの考えかたを丁寧に述べるとなれば、優に一冊の研究書を執筆することになるでしょう。本 エッセー では、meaning という 「意味」 について、私の頭に思い浮かんだ徒然なる感想を述べてみます。

 われわれは、自然言語であれ形式言語であれ、コミュニケーション するために ことば を使っています。コミュニケーション では、「意味」 が伝達される。その伝達では、ことば の 「名指し」 機能を前提にして、文を構成して文脈のなかで 「意味」 が確定され伝えられます。でも、「意味」 は、眼に見えないし、手で触ることもできない。その 「意味」 を的確に伝えるために、われわれは文法 (文の構成法) に従って、ことば を並べています──つまり、眼に見えない 「意味」 は、文法という 「形式」 に従って生まれる。「意味」 は、「形式」 に載って運ばれると云っていいでしょう。

 私は、若い頃 (高校生の頃から 30歳の終わり頃まで)、文学・哲学・心理学の書物を多く読んできて、いっぱしの口をきいて 「文学青年」 を気どっていました (苦笑)。「文学青年」 が ことば に重きを置くことは悪いことではないのですが、その傾向が ややもすれば行き過ぎて、個々の単語の 「本質」 などということを考えてしまう──たとえば、「『愛』 は存るのか」 とか 「『美』 の本質は?」 とか、まるで眼に見えない魚を網で獲ろうと やっきになって あちこちの書物を食い散らしてきました (苦笑)。そんな地獄に陥った私を救ってくれたのが、小林秀雄氏の次の ことば です──

    「美しい花がある。 『花』 の美しさという様なものはない」 (「当麻」)

 ウィトゲンシュタイン 氏の哲学も私を救ってくれました──彼のことばを借りれば、「蠅取り壺に落ちた蝿」 (喩えれば、まさに私のこと) を救ってくれました。

 私は、40歳頃から形式言語 (いわゆる 「数学基礎論」) を真面目に学習しはじめて、学習を継続して今に至っています。私が 「数学基礎論」 を学んだ理由は、仕事上 (モデル論の学習研究で) 必要だったからです。数学では、ことば (すなわち 「項」) と 「意味」 (すなわち 「値」) は、 基本的には 「1 対 1」 (全単射) の対応関係を前提にしているので、ことば の 「多義」 という問題は起こらないのですが、文脈 (無矛盾な構造 (公理系)) のなかで 「真とされる値」 が充足されるというように、形式言語でも 「構文論が先で、意味論は後 (あと)」 です。つまり、「意味」 は 「形式」 に載って運ばれると云っていいでしょう。

 私は、来月で 69歳になりますが、年を取るにつれて、益々、構文論 (文法) 重視の傾向が強くなっています──誤解を恐れずに言えば、意味論はお断りというのが私の正直な態度です。

 われわれの日常生活では、生活そのものが文字通りに 「独創的である」 などということは有り得ない──どんな天才でも、われわれ凡人と似たような日常生活を送ってきました。天才の天才たる所以は、そういう平凡な日常生活を送りながら、社会を変革するような学説・思想を創り出した点にあるでしょう。つまり、独創というのは、「創った モノ」 のなかにしか見出せない。だから、引用文が言っているように、「つまらない雑談のこの世界において、平凡でないような場所を何処に見つけることができるのか」 という嘆き (?) が生まれるのではないか。ロダン 氏曰く、「芸術家よ、形成せよ。語るなかれ」と。

 
 (2022年 5月15日)

 

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