Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Merit の中で、次の文が私を惹きました。
But many that are first shall be last; and the
last shall be first.
Bible: Matthew 19:30
I guess this is the week I earn my salary.
John Fitzgerald Kennedy (1917-63) US stateman.
Comment made during the Cuban missile crisis
Nobody Said It Better, (M. Ringo)
I wasn't lucky. I deserved it.
Margaret Thatcher (1925-2013) British politician and
prime minister.
Said after receiving school prize, aged nine
Attrib.
引用文の1番目の日本語訳は、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(新約聖書、新共同訳)。聖書は この文に続けて、「ぶどう園の労働者」 のたとえ を次に記述しています (Matthew 20:1~20:16)。この たとえ は、たぶん、救済された人々について言っているのでしょう──すでに (先に) 救われた人々が後から救われた人々に対して、神の同じような恩赦をうけるのは不当だと不平を言うのですが、神の恩赦は投下労働 (救済されるために刻苦した時間の長さ) とは無関係であって、「救済された時点で皆一切が救済される」 ということなのかな? 私は、そういうふうに 「解釈」 しました。
「ぶどう園の労働者」 のたとえ を登山の たとえ に言い替えれば、先に登山した人々が後から登っている人々を見下ろして、先に登ったという わずかな優越感を抱いて見下すという 我々が陥りやすい くだらない自慢を揶揄しているのでしょうね。コンピュータ 界隈では、こういう光景が 多々 観られます──海外で流行っている技術を日本語に訳して、他の人々よりも早く日本国内で講釈して 「先駆者」 を気取っている人たちを私は幾人も観てきました (私も RDB の導入普及について そのような 「先駆者」 と看做されているのかもしれないですね (苦笑))。技術は、いったん導入されたならば、多くの人たちが いずれ 習得して普及します──それが技術としての性質でしょう。その技術を わずかばかり早く知ったとしても (ましてや、英語を日本語に翻訳したくらいでは) 自慢 [ 長所、美点、功績 ] にもならんでしょう (笑)。
先の聖書の話に戻れば、宗旨は違いますが、禅のほうでは、澤木興道老師が次のようにおっしゃっています──「修行がそのまま悟りである」 と。「悟り」 というのは、貯金するように次第に増えて、いずれ、尋常とは違う世界を体験するのではなくて、禅の宗旨は 「本証妙修 (修行がそのまま悟りである)」 です。「ぶどう園の労働者」 の たとえ は それと同じこと (神への帰依には優先権などないこと、帰依すれば同じであること) を言っているのではないか。
引用文の 2番目は、JFK の ことば です。その大意は、「さあ、私の出番だ (報酬 [ 給与 ] に値する価値を示す)」 ということかな。
引用文の 3番目は、マーガレット・サッチャー さんが 9才のときに言った ことば だそうです──「ラッキー だったんじゃないわ、私は それにふさわしい価値があったの」 と。「鉄の女」 と云われたほどの彼女なのだから、そういう ことば も言ったかもしれないと想像できますね (笑)。日本人の感覚からすれば、こう言い切る 9才というのは 「生意気な」 いけ好かない子どもと思われるのではないかしら。私も こういう子どもを── 子どもに限らず、こういう大人を──嫌いです。「私は それにふさわしい価値があったの」 という言い草は (たとえ、それが正しくても) 自分で言うことじゃないと思っています、「評価」 というのは他人がするものでしょう。
20才代・30才代の頃には、たとえば 社内で自分は正当に評価されていないと憤っていても、実績のほとんどない若い人を どう評価しろというのかしら、、、。他人と同じような仕事しかしていないのであれば、評価などされる訳がない。評価というのは、他人からの期待を上回る実績を いくつも成して はじめて成されるものでしょう。「社内で評価されていない」 と思うのなら、フリーランス になればいいでしょう。フリーランス になったときに、以前に比べて倍 (以上) の報酬を得られるのであれば、「社内で評価されていない」 という不満は正しかったことになるでしょう。しかし、以前の報酬に比べて下がるようであれば、その不満は的外れということになるでしょう。自己評価などというものは、たいがい 過大評価になる (己れを過大に評価する) ので、私は ほとんど 信用していない。自己監査は監査ではない、と云うではないか。
(2022年 9月 1日)