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In other words, apart from the known and the unknown, what else is there? (Harold Pinter)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Metaphysics の中で、次の文が私を惹きました。

    A blind man in a dark room -- looking for a
    black hat -- which isn't there.

    Lord Bowen (1835-94) British judge.
    Characterization of a metaphysician
    Attrib.

 
 Metaphysics の意味は、「形而上学」。そして、通俗的には「抽象的議論、空論」ということ。引用文の日本語訳は、「暗い部屋のなかにいる目の見えない人、(その人が)黒い帽子を探している、そして(その黒い帽子)はそこには存在しない」。単純に言い切ってしまえば、「目の見えない人が、真っ暗な部屋のなかで、黒い帽子を探している、が その帽子はその部屋にはない」 ということかな──皮肉だね、形而上学者に対する揶揄ですね。

 私が仕事をしている領域 (モデル 作成技術の領域) では、「メタ」 という語が 多々 使われているようなのだけれど、私は 正直言って この 「メタ」 という意味がわからないのです (苦笑)。ましてや、形而上学に至っては、今まで学習したこともないし、どういうことを研究しているかも 全然 知らない。ホワイトヘッド 氏の形而上学について興味を抱いているのですが、如何せん 彼の全集は膨大な冊数で高価なので、今の私の学習研究には直接に関連がないだろうと推測して、読んでいない。彼の著作のなかで私が読んだのは、次の書物です──

    「科学的認識の基礎」、ホワイトヘッド A.N. 著、
     藤川吉美 訳、理想社。

 この書物は、TM (事業分析・データ 設計のための モデル 作成技術) をつくるときに読んで、「科学的認識の対象」 としての モノ を考えるときに、とても役立ったのですが、その後に数学基礎論を学習して、「項 (term)」 を学んで、「モノ = 項」 (モノ とは、関数のなかの パラメータ [ 変項 ] であって、パラメータ のなかに真とされる値が充足されたら、モノ が存在する) という考えかたをするようになって、「モノ とは何か」 という形而上学的な追究を私はしなくなった。私は、仕事でも日常生活でも、基本的に、実体主義的な考えかたよりも関係主義的な考えかたを重視しています (「関係の論理」 R (a, b) を基底にして物事を考える傾向が強い)。それゆえ、「メタ」 という語について、R (a, b) を f (x, y) と同値であると考えれば、私は次の 2つの 「意味」 を思い浮かべます──

    (1) f (a, b) において、a を定義語 (語る言語) として
      b を被定義語 (語られる言語) とすれば、a を メタ
      言語といい、b を対象言語という。

    (2) f (a, b) において、a および b を実 データ とすれば、
      その関数 f は第一階の述語であって、それよりも
      高階 (関数の関数、集合の集合) を メタ という。

 「メタ」 についての私の 「解釈」 は、このくらいです。私は、職業柄、実 データ を対象にして形式的構造 (モデル) をつくるので、その モデル よりも高階の事象・事物を考えることがない。ただ、私が仕事において第一階の述語と集合論を対象にしているからと云って、私が探究したことのない高階の領域を無意味だとは思っていない、じぶんの知らない領域のことを見下すほど私は アホ でないので念のため。ただ、F-真 (事実的な真) を検証できない意見を私は賛同しにくい、と言っているだけです。

 抽象的議論では、それぞれの説の 「前提」 (および、F-真) が曖昧にされやすく、議論が (良く言えば) 単なる憶測で終わるか、(悪く言えば) 我流の思い込みを一方的に弁じるに終わるので、私はそういう議論には先ず加わらない──そういう抽象的議論を引用文は揶揄しているのでしょうね。私のそういう態度は偏狭であるのかもしれない。しかし、酒の席での談話ならいざ知らず、およそ まとまった一つの説を延べるのであれば、F-真を検証できない説 (仮説) などは 「信念」 の言明であって、論説には値しないでしょう。

 
 (2022年10月 1日)

 

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