Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Minority の中で、次の文が私を惹きました。
The majority has the might - more's the pity
- but it hasn't right...The minority is
always right.
Henrik Ibsen (1828-1906) Norwegian dramatist.
An Eneny of the people, Ⅳ
引用文は イプセン の作品から抜粋した文ですが、その日本語訳は、「多数派は権力をもっている──さらに同情も──しかし正義をもっていない、、、少数派は いつだって正しい」 ということかな。
私は多数派に属することを嫌う気質が強いようです、つねに少数派のなかに属していたい。この気質は、若い頃 (20歳代) から いささかも変化していない。若い頃には、多数派 (あるいは、集団や社会 [ 社会制度 ]) に対して憤怒を感じていて、それに対して反抗してきました──さしたる仕事をもたない若者 特に文学青年気質の青年が書物を多く読んで それらから学んだ理想 (あるいは、正義) に駆り立てられて、不条理な [ 不合理な ] 現実の社会に対して怒りを感じるのは自然な成り行きでしょう。
しかし、そういう青年も (学校を卒業して) 社会に出て仕事をするようになって、他人と実際に交流すれば、社会には色々な人たちがいて、様々な考えが混在して混沌としていることを目の当たりにするでしょう。そして、自らの考えを他人に対して強いることなどできないこともわかってくる──自分の考えを以て自分自身を コントール しながら変えていくことができるけれど、他人は コントール できない存在だということを実感するでしょう。それを実感したときに、どのような対応をしていくか──他人と どのように つきあって、そのつきあいのなかで 自分を どのように伸ばしていくか──が その人の その後の人生を形づくるのではないか。
自分が信じて歩いている道の他にも、道は いくつもある、それを認めながらも自分を信じて自分の道を歩むしかない。いっぽうで、「他人の道も数々色々ある」 (人の数ぶん道がある) ということを実感できなかった人たちが多くいるのも事実でしょう、そういう人たちは自らの考えが一番に正しくて他人は その考えに同調しなければならないと思い込んでいる。そういう人たちは自らの価値判断を他人に強いる。特に少数派といわれる人たちは、多数派からの圧力 (同調圧力) を強いられ、それに従わなければ非難される。
私は少数派でいることを好んでいるけれど、少数派が つねに正しいとは思っていない。多数が集まった組織では、いわゆる 「2・6・2」 の法則というのが観察されるようです──すなわち、その法則の意味するのは、上位 (すぐれた人たち) 2割、下位 (だめな人たち) 2割、そして 6割は中道 (日和見?) な人たちだそうです。多数派というのは、その 6割の人たちのことを云うのでしょうね、上位 2割の人たちは多数派に属さなくても単独でも成すべきことを為す人たちでしょう。
私が若い頃に抱いていた少数派というのは この上位 2割の人たちに近いのかもしれない、そういう上位 2割の人たちは、社会のなかで色々な体験 (成功と失敗) をしてきて学んで その位置に到達したのでしょう。学習しなければ脳は発達する訳がない。私が若い頃に抱いていた正義 (理想) というのは、書物のなかで学んだにすぎないので、体験なかで得た実感が見事に欠落していたのです。自らの身心を実験台にして体得した道理とは違っていたのです。だから、少数派と云っても下位 2割のことなどは私の眼中になかった。
しかし、その下位 2割もふくめて、衆生を 一切 切り捨てないのが宗教ではないか──澤木興道老師 (禅僧) 曰く、「自分が美味いものを食わんでもいい。また、出世せんでもいいが、しかし、人の美味いものを食いたがる気持ち、出世したがる気持ちもわからんような アホ では ダメ だ」。この実感がなければ、臭みのついた エリート 意識や、独りよがりの正義感に陥ってしまうのでしょうね。そういう スノッブ (snob)(*) について澤木老師曰く、「どっちゃ向いて えらいんだか」 と。こういう スノッブ や日和見な人たちが形成している majority に対峙する人たちのことを引用文では minority と云っているのでしょうね。そのくらいのことであれば、私にも minority の意味はわかる、しかし ほんとうの minority というのは、(澤木老師がおっしゃるように) majority も minority も 一切 抱擁した状態ではないか──その状態に至った人は少数でしょう。私は スノッブ ではないと思っているのだけれど、ほんとうの意味で minority ではないのは確かです、、、スノッブ ではないが、それでも スノッブ をうらやましがる気持ちが 一寸 存する。Majority の外側に立ちながら、彼らを睥睨 (へいげい) しつつ自らの道を歩んできたけれど、なにかしら俗物的な思い残しが私の歩む足を重くしているというのが今の私 (69歳の私) の正直な、そして寂しい思いです、、、。
(*) 俗物 (社会的地位が下の人々をばかにし、地位や財産などに価値をおく上流気取りの人。
(2022年11月 1日)