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Morality in Europe today is herd-morality. (Friedrich Wilhelm Nietzsche)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Morality の中で、次の文が私を惹きました。

    No morality can be founded on authority,
    even if the authority were divine.

    A.J. Ayer (1910-89) British philosopher.
    Essay on Humanism

 
    Morality which is based on ideas, or on an
    ideal, is an unmitigated evil.

    D.H. Lawrence (1885-1930) British novelist.
    Fantasia of the Unconscious, Ch. 7

 
    It is a public scandal that gives offence, and
    it is no sin to sin in secret.

    Molière (Jean Baptiste Poquelin; 1622-73) French
    dramatist.
    Tartuffe, Ⅳ:5

 
    Moral indignation is in most cases 2 percent
    moral, 48 percent indignation and 50 percent
    envy.

    Vittorio De Sica (1901-74) Italian film director.
    The Observer, 1961

 
 引用文 1番目の日本語訳は、「道徳性/倫理性は権威のうえに築かれるのではない、たとえ その権威が神聖なものであったとしても」。
 権力をもった高位あるいは威厳ある地位に就いた人物が必ずしも高徳であるとはかぎらないことは、現実社会を観れば明らかなことでしょうね──政治家、宗教の教祖、学校の教師などを見ていて、私は そう確信している (There are teachers and teachers. ピン から キリ までいる)。権威を笠に着てしゃべる人を私は 「生理的に」 嫌悪感を覚える。そして、自らの専門領域で成した実績などをいいことにして、他のいろんな領域に首をつっこんで勝手なことをぬかしている ヤツ [ 自分は頭がいいと思って、いろんな領域のことを しゃべることができると思い違いしている ヤツ ] を見ると反吐が出る。そういう ヤツ が同席している集まりでは、一応 社交上、私は笑顔で対応するけれど──そういう ヤツ に くってかかるほど青二才ではないけれど──、青年期に修養を怠ってきた可哀想な ヤツ だなと そいつの顔を眺めている。

 仕事というのは、具体的な手続きで以て構成されるのであって、一つの仕事は それが属する全体構造のなかの一つの 「機能 (function)」 でしかないと私は思っています。だから、私は、その 「機能」 に対して順位 (高低・貴賤) を認めない。しかし、権威を笠に着て しゃべる人というのは、この 「機能」 に順位を付けて、その順位を前提にして、仕事について宣うので、私は 「生理的な」 嫌悪感を覚える。勿論、権力を付された地位に就いている人物が高徳であることも当然に実存します──そして、そういう人は、そもそも 権威を笠に着て語るということはしない。道徳性/倫理性と権威とのあいだには、同一律も交換律も推移律も成り立ちはしないし、原因-結果の因果関係などない。それらは、べつべつの範疇なのであって、それらを結ぶのが修身・修養ということではないか。

 引用文 2番目の日本語訳は、「道徳性、それが思想あるいは思想に基づいているものであるなら、全くの悪である」。
 これらの引用文で語られている道徳は、西洋社会に於ける道徳であって、道徳の根柢には 「神」 が存るでしょうね──「神」 を持たない道徳は空虚でしょう。私は、西洋社会で生活していないので、「神」 が前提となる道徳を実感できない。日本社会では、道徳は仏教・儒教が前提になっているでしょう──日本社会では、「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ」 (孔子、「論語」) というのが道徳の基本になっているのではないか、本 エッセー で述べる私の意見/感想は ほぼ この道徳観を根柢にしています。

 この引用文の趣旨を一言でいうなら、「口先だけ」 ということでしょうね──道徳を語るのは良い、ただし それを語る人が その道徳を実践しているのであれば。この引用文を読んだときに私は禅で云う 「悟り」 ということを思い起こしました。われわれ凡人は、「悟り」 という ことば を聴けば、「無」 の境地に至った超人的状態を想像するけれど、道元禅師は次のように喝破なさった──「眼横鼻直」 (当たり前のことを当たり前に受け入れる)と。そして、曹洞宗では、「悟り」 のことを次の ことば で表しています──「本証妙修」 (修行が悟りである)。道徳と宗教は、勿論、違います (この点について、私見を述べれば この エッセー は収まりがつかないので、割愛します)。昔、或る書物で読んだ話なのですが、その書物のなかで、坐禅の効用を説いて、次のような記述がありました (その記述について、今となっては、私の記憶が曖昧なので正確な引用ができないのですが、その主旨のみを次に綴っておきますので悪しからず)──ベートーヴェン の 「運命」 を大音量で聴きながら坐禅をしていると気持ちが昂ぶって やる気がでる [ 充実感が漲 (みなぎ) る? ] 」。これこそが引用文が云う 「悪」 でしょうね、自らの思想に基づいていると思っているのだけれど、思い違いも甚だしい。

 引用文 3番目の日本語訳は、「公になったスキャンダルは まさに(法律上の)罪である、そして ひそかになされた [ 公にされない ] (道徳上の)罪は罪ではない」。
 この引用文を読んだとき、私は 「聖書」 の 「姦通の女 (The Woman Caught in Adultery) を思い起こしました (John 8:1~8:11)。そして、「姦通の女」 について、亀井勝一郎氏は彼の著作 「西洋の知恵」 のなかで次のように綴っています──

     さきに述べたように 「罪なきもの」 という一語が決定的
    なのだ。姦淫の罪を犯したものはこの女一人だけではない。
    あらゆる人間が、外面はともあれ心の中でそれを犯している
    のではないかという暗黙の詰問がある。「色情を抱きて女を
    みるものは、心のうちすでに姦淫したるなり」 という言葉
    がここに明確に自覚されていたであろう。内在的な意味での
    罪の意識を、周囲の人々に一瞬にして呼び起したのである。
     聖書は訴えた者らが良心に責められて一人々々立ち去った
    ことをしるしているが、内在的な罪の自覚のうながしによっ
    て、各人は自己の内部に 「偽善者」 を感じたのである。
    このとき彼をとりまいていたのは群衆だが、群衆を一人々々
    に分断し、個人に復帰させ、一個の孤独な人間としての反省
    を一瞬にしてうながしたところに キリスト の権威があった
    と云ってよかろう

 なお、上に引用した文のなかで下線は私が引きました。「群衆を一人々々に分断し、個人に復帰させ、一個の孤独な人間としての反省を一瞬にしてうながした」──「色情を抱きて女をみるものは、心のうちすでに姦淫したるなり」 という sin を厳正・厳格に詰問したとき、「私は無垢である」 と断言できる男は ほとんどいないのではないか。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」 というふうに 「聖書」 にも記されている。彼らは 「自己の内部に 『偽善者』 を感じたのである」。この 「偽善者」 としての自覚と真正面から向きあったのが 「惜しみなく愛は奪う」 (有島武郎) です──私の愛読書の一つです。

 われわれは、ふだんの生活では、it is no sin to sin in secret というふうに装っている。しかし、思い内にあれば 色 外 (ほか) に顕れる。そして、その顕れを開き直れば 「偽悪」 的な言動になるのでしょうね (「偽悪」 は、青年期に 多々 観られる傾向でしょう)。本証妙修を まさに実践している聖人でもない限り、sin in secret は避けられないでしょうね。だからと言って、「偽悪」 は 「偽善」 に比べて正直であるなどとは私は 毛頭 思わない。社会生活を営んでいるのであれば、it is no sin to sin in secret というふに思って、おもてに表さないのが われわれ凡人ができる最上の儀礼・礼式ではないか。

 引用文 4番目の日本語訳は、「道徳的に憤りを感じるというのは、たいがい 2パーセントの道徳、48パーセントの憤り、そして 50パーセントの嫉 (ねた) みなのである」。
 たいがいの人たちは、「道徳」 という意味について確たる意見/信念を持っていないのではないか (私は持っていない)。道徳とは風習の吟醸酒みたいなもので、それは風習とともに移り変わる。国や地域に於いて、そして時を経るにつれて、道徳は変化していき、10年前と同じではない。芥川龍之介氏は道徳について次のように言っています (「侏儒の言葉」)──「道徳は常に古着である」。一人の人間が、彼/彼女の人生のなかで、彼/彼女が生活している社会の風習 (あるいは、道徳) が次第に変転していく様 (さま) を すべて漏れなく実感するのは ムリ でしょう。したがって、われわれが 「道徳的に憤りを感じる」 というのは、われわれが自らの人生のなかで実感した自らの価値判断しだいではないか。勿論、宗教から導き出された最低限の明文化された戒律は存る (たとえば、「聖書」 の十戒 The Ten Commandments)。法律・法令では明文化されていない、しかし社会の風習上 好ましくない言動について、道徳上の論議となるとき、道徳が個人の内面的な価値意識 (快・不快) であるからには賛否が生ずるのは当然でしょうね。

 この引用文は、「個人の内面的な価値意識」 が憤りを感じたとき、その憤りの理由の半分は 「嫉み」 であると暴いている。道徳的な憤りと云っても (風習を前提にした掴み所のない道徳など実感したこともないのに) 所詮 嫉妬から沸き起こった癇癪 (かんしゃく) を道徳という衣に包んで吐きだしているだけだ、と──「私が、周囲の人々と同調して抑制している (我慢している) ことを あなたは詫 (わ) びることなくやっている、私は あなたの我が儘を許さない」 (あなたが相手や周囲の事情を顧みず自分勝手に自分の思い通りにすることを許さない) と。その憤りに対する反論は簡単に想像できますね──「でも、法を犯してはいない」 と。こういう水掛け論には私は参戦しない、論理的に正否が判断できないので。私は私の内面的な価値意識に従うだけです、「お前の道を進め、人には勝手な事を言わしておけ」 (ダンテ) と。もし、私の選んだことが間違っているのに気づいたのであれば、即 訂正して新たに (再び) 進めばいい。道徳について、私は アインシュタイン 氏の次の ことば を信条としています──

    何があるべきであり、何があるべきでないか、ということに
    対する感覚は、樹のように成長し死んでゆくもので、どのよう
    な肥料を施してもこれを変えることはできない。個人にできる
    ことは、せいぜい清潔な規範を示し、シニック な人の多い
    社会において倫理的信念をまじめに主張する勇気をもつこと
    くらいだ。ぼくは、ずっと昔か 自分の生活をそんな風に送り
    たいと努力し、少しずつ成功してきたと思う。
    (ゼーリッヒ 著、広重徹訳、「アインシュタインの生涯」)

 
 (2023年 4月 1日)

 

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