Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Motive の中で、次の文が私を惹きました。
Never ascribe to an opponent motives
meaner than your own.
J. M. Barrie (1860-1937) British novelist and dramatist.
Speech, St Andrews, 3 May 1922
The last temptation is the greatest treason:
To do the right deed for the wrong reason.
T. S. Eliot (1888-1965) US-born British poet and dramatist.
Murder in the Cathedral, I
Because it is there.
George Mallory (1886-1924) British mountaineer.
Answer to the question 'Why do you want to climb ML Everest?'
George Mallory (D. Robertson)
Nobody ever did anything very foolish except
from some strong principle.
Lord Melbourne (1779-1848) British statesman.
The Young Melbourne (Lord David Cecil)
The heart has its reasons which reason does
not know.
Blaise Pascal (1623-62) French philosopher and mathematician.
Pensées, IV
Men are rewarded and punished not for what
they do, but rather for how their acts are
defined. This is why men are more
interested in better justifying themselves than
in better behaving themselves.
Thomas Szasz (1920-2012) US psychiatrist.
The Second Sin
前回 (7月 1日) からの続きです。Motive について、最終回です。
引用文 6番目の日本語訳は、「人 (人間) が毀誉褒貶されるというのは、彼らが為したことに由るのではなくて、寧ろ彼らの行為がどうように定義されているかということに由 (よ) る。それゆえに、人々は彼ら自身が もっとうまく行動することよりも、彼ら自身を もっとうまく正当化することに さらに関心を抱くのである」。
Thomas Szasz (トーマス・サーズ)氏は、精神科医です。彼は、精神医学の聖書である DSM (精神疾患の診断・統計マニュアル)を批判して、彼の著書 The Myth of Mental Illness(精神病という神話)は、出版以来、多くの論争を引き起こしてきたとのこと。彼は、精神障害者の個人の自由と公民権の究極な擁護者だったというのが学会や世間の評価です。
私は、精神医学について門外漢なので、彼の学説やそれに対する意見を述べるほどの充分な知識を持ちあわせていない。この引用文から読み取れることは、「たぶん 医学界が病気/病名を定義して、その定義を元にして人々の行動を判断しているのであって、人々の行動 そのもの の正当性を軽視している。 だから、人々は、医学界が定義する病気に該当しないように自らの行動を制御して正当化している」 ということかな。
私は精神医学の知識を持ちあわせていないので、本 エッセー を綴るにあたって、この引用文を もっと一般化/汎用化して、次のように 「解釈」 してみます──「仕事 (やるべき事、やってはいけない事) が詳細に定義されているので、仕事を遂行する人たちは、その定義から逸れないように行動する。したがって、定義されている手続きよりも ヨリ効果的なやりかたがあったとしても、手続きから外れるのを危惧して ヨリ効果的なやりかたを実行しない」。単純に言い切ってしまえば、いわゆる 「マニュアル 人間」 や 「なにかあったら どうするんだ症候群」 ということでしょうね、さらに極論すれば、いわゆる 「公式主義」 ということでしょうね。
特に、マニュアル (定義) を用意したのが権威/権限をもつ組織 (たとえば、学会とか会社など) であれば、マニュアル (定義) に楯突くことは 殆ど ムリ でしょう。小説や テレビドラマ では、権威/権限に楯突いて戦い、遂には勝利する英雄が描かれることがあるけれど、小説や テレビドラマ が扱うということはそれだけ稀な事例でしょうね。
私自身は、大多数の人々が群れて行動している状態を嫌う傾向が強い。大多数の人々が一致団結して行動をするためには、「大義名分」 が立てられる──その 「大義名分」 に対して 私は 「公式主義」 の悪臭 (同調圧力) を強烈に感じる。彼らは、当然ながら 自分たちの行為を正当なものとみなして、そのときの快感というのは たぶんに 彼らを否定する人たちを不当として罵って、彼らの賛同者の数が増えていくことを喜ぶ、いわゆる 「正義中毒」 を患っているようにしか私には見えない。紀元前 300年くらいに すでに荘子は次のように言ったではないか──
世俗の人、皆人の己に同じきを喜びて、人の己に異なるを
悪 (にく) む
現代に至っても、西洋の哲人も次のように言っているではないか──
きみは生を安易にしたいか。それならばつねに群衆の間に
とどまれ。そして群衆といっしょになって、われを忘れよ。
(ニーチェ、「遺稿」)
ニーチェ の ことば の対偶をとれば、次のように考えることができるでしょう──生きるとは、孤独のなかにあることだ。Motive とは、群れのなかではなく、孤独のなかで [ 己れの思考・魂のなかで ] 生まれる意欲・衝動でしょう。私が愛読している 「徒然草」 のなかでの大好きな一文を次に記載して、Motive の エッセー の最終回とします──
つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。まぎるる方なく
ただ一人あるのみこそよけれ。
齢 70にしての私の実感です。
(2023年 7月15日)