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Musicians don't retire; they stop when there's no more music in them.
(Louis Armstrong)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Musicians の中で、次の文が私を惹きました。

    Sometimes, I think, not so much am I a
    pianist, but a vampire. All my life I have
    lived off the blood of Chopin.

    Arthur Rubinstein (1887-1982) Polish-born US pianist.
    Attrib.

 
 引用文の日本語訳は、「ときどき、私は思う、私は ピアニスト としては それほど大したことはないが、吸血鬼である、と。私の全生涯において私は ショパン の血を吸って暮らしを立ててきた」。ルビンシュタイン 氏は、ポーランド 生まれの ピアニストです。1946年、米国に帰化しました。ショパン の演奏が十八番でした、「華麗な技巧をもち、ロマンチック な演奏を得意としていた」 というのが定評のようです。

 私は、ルビンシュタイン 氏の演奏を ほとんど聴いたことがない──私が聴いてきた ピアニスト は、アシュケナージ、エッシェンバッハ、ケンプ、ホロヴィッツ、リヒテル、アラウ、バックハウス、サンソン・フランソワ、マルタ・アルゲリッチ が主です。ルビンシュタイン 氏の演奏が嫌いだから聴いてこなかったというのではなくて、カセットテープ や CD を買うときに、ルビンシュタイン 氏を買う頻度が たまたま 少なかったというだけのことです。前述した ピアニスト たちが録音した CD は、年代が やや古い。そして、私は、現代の演奏家の CD を聴く (あるいは、YouTube での彼らの演奏動画を観て聴く──例えば、エレーヌ・グリモー、ヴァレンティーナ・リシッツァ、ユンディ・リ、辻井伸行ら──) こともあるのですが、総じて 昔 (若い頃) 聴いた古い盤を好んでいるようです。

 芸術家と数学者に対しては、私は ミーハー みたいに魅了されます──芸術家と言いましたが、音楽に限って言えば、クラシック 音楽のほかにも、歌謡曲・GS・フォークソング・ロックなどの歌手たちにも惹かれます、とにかく音楽を楽しんでいる人たちに共感し惹かれます。私は楽器を演奏できない、中学生の頃に クラシック・ギター を少し かじりましたが、高校生になって停めて、それ以来 楽器を手にすることはなかった──高校生になって ギター を停めたのは、文学のほうへ急傾斜していったからです。以来、今に到るまで、「文学青年」 気質の抜けない オジサン (老人?) になった次第です。カミサン が子どもの頃に ピアノ をやっていたので、カミサン は息子たち三人に 幼稚園児の頃から 音楽教室に通わせて ピアノ を習わせたのですが、息子たちは小学校 3年生くらいになって野球のほうに興味が移って ピアノ をやらなくなって、今では ピアノ は 部屋の オブジェ になっています (泣)。今になって 私は 子どもの頃に ピアノ を習っていればよかったと悔やんでいますが、そもそも 私が幼少期 (昭和 30年代なかば) を過ごした半農半漁の村では 先ずもって ピアノ が置いてある家など皆無でした。時代の制約といえば そうなんでしょうが、残念です。楽器を演奏できる人たち──人体を楽器とする声楽家・歌手もふくむ──を私は うらやましい。

 作曲家・作詞家の思い [ 感情 ] は、譜面に書かれています──曲の構成、調性 (長調、単調)、速さ、強さ (p と f) など、楽器を演奏する人たちは 当然 それらの指示を読み込んで 「解釈」 して、作曲家・作詞家の思い (意味) を再現するでしょう。いわば、曲を再現するには、構文論と意味論という手続きから構成されています。この手続きは、私が専門としている モデル 作成 (事業分析、データ 設計のための モデル 作成) でも同じです。文学でも同じです、たぶん 我々が営む活動のほとんどは そうでしょう。「意味」 (あるいは、感情) は、「形式」 に載って運ばれると云っていいでしょう。その 「形式」 が 音符や絵の具や言葉や所作という違いによって、音楽や絵画や文学や儀礼が成り立っている。

 私が大嫌いな演奏は、作曲家・作詞家の指示を無視して──すなわち、構文論を無視して──、演奏家が自らの思いを情感たっぷりに披露しているような 「勝手な」 演奏です。現代では、ウェブ の サイト IMSLP で 譜面 (1953年以前の著作権が切れた楽譜) が入手できるので、私のような音楽の シロート であっても CD を聴きながら、譜面を観て曲の流れを追うことができる。当然ながら、譜面を音楽の専門家のように正確に読み込むことはできないですが、(自分の大好きな曲であれば、いくども聴き込んでいるので) おおまかな追跡はできるでしょう。ただし、おおまかな把握は、「解釈」 あるいは 「理解」 に値しないことは、私とて ちゃんと自覚しています。だから、音楽演奏の 「批評」 は 毛頭 できない、演奏について、せいぜい 「好き、嫌い」 を表明するか、あるいは 演奏に衝撃をうけたときには 「スゲー」 としか言いようがない。この辺りが シロート の限界かな、と思っています。でも、或る程度 構文論を把握したうえで、「意味」 (あるいは、感情) を味わうことができるので、独りよがりな陶酔に陥ることはないでしょう。そして、この独りよがりな陶酔を 「私の 『解釈』」 だと言い切られても 私は苦笑するだけです。

 プロ の演奏家であれば、構文論のみで済ませる──いわゆる 「楽譜どおりに」 演奏する──などということは有り得ないでしょう、作曲家・作詞家が刻んだ音符を通して、作曲家・作詞家の思いに迫ろうとするでしょう。そうでなければ、演奏について 「音楽性」 「芸術性」 「精神性」 ということが語られるはずがない。正確な資料 (譜面) があれば、音楽がわかる訳ではない、これは モデル 作成でも同じです。現実的事態を正確に写像した形式的構造を観ても、「現実」 が内包している問題点がわかるという訳ではない。「技術」 の習得に長い年月を費やして、その 「技術」 を使って体験を積んで はじめて見えてくる 「意味」 がある、世阿弥は次のように言ったではないか──「初心忘れるべからず、ときどきの初心忘れるべからず」 と。

 ルビンシュタイン 氏は、ショパン の血を吸って暮らしを立ててきたと言っていますが──私のような程度の凡人は ルビンシュタイン 氏ほどの非凡な才識を持ちあわせてはいないけれども──凡人は凡人なりに、仕事上、ウィトゲンシュタイン や ゲーデル の血を吸って暮らしを立ててきたように思う。

 
 (2023年 9月15日)

 

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