Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Myths の中で、次の文が私を惹きました。
Science must begin with myths, and with the
criticism of myths.
Karl Popper (1902-1982) Austrian-born British philosopher.
British Philosophy in the Mid-Century (ed. C. A. Mace)
引用文の日本語訳は、「科学は神話から始めて、そして神話に対する批評で始めなければならない」。
カール・ポパーは、哲学者で、科学哲学の領域で活動していました。私は、TM (モデル 作成技術) を制作する過程で、ポパーについて次の 2冊を読み込んできました──
(1) 「客観的知識 (進化論的 アプローチ)」、
カール・R・ポパー 著、森博 訳、木鐸社刊。
(2) 「ポパー と ウィトゲンシュタイン (ウィーン 学団・論理実証主義 再考)」、
ドミニック・ルクール 著、野崎次郎 訳、国文社。
ポパー が 「科学哲学」 的に分析した 「3つの世界」(物的状態の世界、心的状態の世界、客観的意味の世界) の関係を基底にして、その土台の上に、ルドルフ・カルナップ (哲学者) の 「指示関係、表現関係」 を置いて、更に カール・ヘンペル (哲学者) の言語 L 「経験的言語」(言語 L の語彙、言語 L の文形成規則) の構成を加味して、ウィトゲンシュタイン の後期哲学を参考にして、TM の構文論・意味論の基礎を作りました (拙著 「データベース 設計論──T字形 ER (関係 モデル と オブジェクト 指向の統合をめさして)」18ページから 23ページ)。TM は、哲学的には彼らの説の カクテル (混成酒) です。それゆえ、引用文の言っていることを わかるのですが、この辺のことを詳しく述べると 本 エッセー では収まり切らないので、この引用文を もっと汎化して扱ってみます。
「神話 (myth)」 には、次の 2つの 「意味」 がふくまれているでしょう──
(1) 超自然的な存在/現象や、英雄が成した創造的な行為の伝説。
それらを根柢にした 「ミュトス」 と云われる民族的世界観。
(2) 上記の意味から派生して、比喩的に、客観的な根拠もないにも
かかわらず、絶対的なこととして信じられている事柄。
ポパー が引用文のなかで言及している myth は (1) の意味でしょうね。現代では──まさに、ポパー が言っているように、科学が 「神話」 の批評を進めてきて、科学的 (あるいは、論理的) 思考が浸透したので──、たとえば、西洋では 中世に絶対的権威を振るった教会的教義が科学の進歩とともに力が衰退して、(1) の意味が 一つの民族 (社会全体) のなかで使われることは ほとんど ないのではないか (あるとしても、一部の人たちのあいだでしか起こり得ないのではないか)。
ただ、厄介なのは、(1) が衰退すれば、(2) も次第に廃れるはずだと推測されるのだけれど、逆に 客観的根拠がないにもかかわらず、「似非科学」 (たとえば、「○○ 健康法」 とか 「○○ 成功法」 とか) が ネット 社会のなかで蔓延するようになったのは不可思議です。たぶん、いくつかの体験談の中から なんらかの法則性を見つけ出して、その法則を 「成功の鍵」 として しゃべりたいのだろうけど、「法則」 として名のるには標本数が少なすぎる (逆に言えば、反例を いくつも提示できる)。科学たるには、推論の 「前提」 が真っ先に問われる、「前提 (公理、仮説)」 に対して、論理規則を適用して、その推論結果が つねに同一になる (真となる) 再現性が保証されるのが科学でしょう。しかも、その 「前提」 を整えるためには、どういう 「目的」 を実現するためなのか が問われます。私は、ひとつの論説を読むとき、(推論/証明を検証する前に) 先ず以て 必ず 「目的」 「前提」 を確認します。そして、「似非科学」 と云われている論は、「前提」 が徹底していない (曖昧です、あるいは脱落している)。
「前提」 は、或る意味、制約束縛と云ってもいいでしょう。だから、科学的であろうとすればするほど、この制約束縛は強くなる。したがって、「法則」 は、或る限られた狭い範囲でしか適用できない。いっぽう、我々が生活している社会では、「結果」 が重視される。成果 (期待された結果) を出すことが生活を送るうえで大事です。「前提 (前件)」 を考慮しつつ、或る期限内に 「結果 (後件)」 を出すというのは、非常に難しい、、、私は、ときどき 「efficient (効率的) かつ effective (効果的)」 という ことば を使いますが、そういう ことば を使っている己れに対して苦笑しています──自分自身が それ (efficient かつ effective) を どれほど実現できているか疑わしい (苦笑)、efficient (= doing well and thoroughly with no waste of time, money or energy) とは 一定の手続き (公式、法則) を前提にしているし、effective は output-oriented (= producing a successful result) でしょう。だから、私は、「論理」 を清潔に使うことのできる領域、すなわち論理規則のみが通用する領域を離れたら、ほどほどに 「論理的」 であれば──すなわち、三段論法を崩さない程度に推論できれば──良しとしています。そして、「終わり良ければ、すべて良し」 というふうに考えています。日常生活で使う 「論理」 って、その程度のものではないか?
(2023年10月 1日)