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O Romeo, Romeo! wherefore art thou Romeo? (William Shakespeare)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Names の中で、次の文が私を惹きました。

    No, Groucho is not my real name. I'm
    breaking it in for a friend.

    Groucho Marx (Julius Marx; 1895-1977) US comedian.
    Attrib.

 
 引用文の意味 (日本語訳) は、「いや、グラウチャ は私の本当の名前ではない。(グラウチャ という名前は) 友だちの利便性のために一時的に (あるいは、その名前を使うことによって友だちが慣れ親しんでくれるので、気まぐれに) 私は代用として使っているのさ」 ということかな。単純に言い切ってしまえば、キャバクラ で働く ねーチャン の源氏名みたいなもんかな www.

 「言霊」という モノ を私は信用していないけれど、されど ことば を単なる符丁とも思っていない(ただし、数学のように、モノ を変数として扱う場合を除いて)。「名は体を表す」 と云われるように、モノについて──それが具体的な モノ であれ、抽象的な モノ であれ──相応 (ふさわ) しい名前を付けたいと希(のぞ)むのは、生活を営むうえで、我々の論理的(あるいは便益的)・情緒的な性質ではないか。ことば が モノ を指示するために使われるのであれば、モノ の 「意味」(sense)を表すように 的確な名詞を 「名指し」 するための語として使うでしょう (「意味の対象説」)。そして、「名指し」 された モノ は、社会という文脈のなかで、その語が使われていくうちに様々な 「印象」 が付着して、当初の 「名指し」 の他に その 「印象」 を想起する 「意味」 (meaning)すなわち 文脈のなかで 「解釈」 される意味が派生してくるのでしょう (「意味の使用説」)。「意味」 の この二つの機能 (意味の対象説、意味の使用説)が絡みあいながら、ことば の 「意味」 は世のなりゆきと共に変遷していくのでしょうね。そして、ことば を使って伝えられている 「意味」 を我々は 大まかにしか感じ取れないのではないか、ことば が モノ (の意味) を的確に顕すことは 究極 ムリ ではないか、というのは ことば を使うということは 或る視点からの記述 すなわち一つの 「解釈」 にならざるを得ないので。それを仏教では、「説示一物即不中 (ことば で言っても的中しない)」 と云っているのではないか。

 モノ を 当初 「名指し」 するときに、「言霊」 を意識しているのかもしれないけれど、それが永続すると考えるのは素朴すぎないか? しかし、いっぽうでは、「言霊」 というほどに意識していないかもしれないけれど、子どもの誕生時に、子どもを命名するために親は子どもの将来を念じて様々な思いを込めて命名するでしょう。子どもの名前を単なる符丁だとは親は 毛頭 思っていないでしょう。そうかと言って、親の切なる思いだけで命名している訳でもなくて、社会的に通用する ことば を選んでいるでしょう。「ことば と 意味」、そして 「言語と思想」 を哲学的に探究した人物が ウィトゲンシュタイン です、彼の後期哲学は その探究に費やされています (彼の死後、彼が遺した メモ [ 思索の断章 ] が編集されて 「哲学的探究」 という書物として出版されています)。しかし、彼の後期哲学は ひどく難しい、、、ラッセル ですら、ウィトゲンシュタイン の後期哲学を評して、「天才が凡夫に成り下がった」 というふうに思い違いしたくらいなのだから。ことば あるいは 「名指し」 (name) ということを私のような程度の凡人が いったん 考えはじめると収拾がつかなくなってしまう、、、「下手の考え休むに似たり」 と云うけれど、(name の) 「定義」 などということに拘れば沼に ハマ ってしまう、、、そうなれば 辣韮 (らっきょう) の皮剥き状態に陥ってしまう (ウィトゲンシュタイン が言ったように 「蠅取り壺に落ちた蝿」 状態でしょうね)。ことば には 「言霊」 が宿っていると言えば 一歩行き過ぎだけど、ことば は単なる符丁であると言えば 一歩足らないというのが、ずいぶんと曖昧な言いかただけど、私の実感です。

 
 (2023年11月 1日)

 

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