▲ このウインドウを閉じる |
Music helps not the toothache. |
ああいう天才的な人物は、天才と同じ程度の「虚無感」を抱いていて、夜なかに、静かな部屋で、ただ ひとり、考え事をしていると、ああいう天才の巨大な「虚無の世界」に引きずり込まれてしまいます。僕のような凡人が、ああいう天才の「虚無感」を、一気に、感じてしまうと、もう、現実の世界など、どうでもいいように感じてしまいます。 そういう状態になったとき、唯一の救いは、クラシック音楽を聴いている、という点です。音楽を聴けば、虚無感が和らぎます。もし、クラシック音楽を聴いていなければ、僕の精神は、確実に、破滅していたでしょうね。 ところが、「精神的な救い」となっていたクラシック音楽が、最近、「悲哀の世界」に僕を連れていこうとしています。たとえば、モーツァルトの音楽を聴いていると、(通俗的な悲しさとは違う) 「透徹した悲しみ」としか言いようのない「源泉の感情」を揺さぶってきます。 ああいう美しい音楽を作った人が、現実の世界のなかで、どうして、生き続けていられたのか、不思議でならない。
僕は、中学生・高校生だった頃、クラシック音楽を聴いても--授業のなかで、聴かされても--、退屈しか感じなかったけれど、今になって、クラシック音楽は、人類の財産だと思う。
そうそう、そういえば、ウィトゲンシュタインは、当初、自らを論理学者と思っていて、哲学者だとは思っていなかったそうです。述語論理を完成したラッセルですら--ラッセルは、ウィトゲンシュタインの恩師ですが--、ウィトゲンシュタインが作った論理学(命題論理)を論破することができなかったし、逆に、論破されていたそうです。そして、ラッセルは、論理学・哲学の継承者として、ウィトゲンシュタインを可愛がったのですが--まるで、息子のように可愛がっていたそうですが--、ウィトゲンシュタインは、ついには、ラッセルの世界と違う世界の哲学観を提示しました。 「ラッセルは、もう、哲学に対して、命を捧げなくなった。」
そして、「冷笑」したそうです。 こういうふうな 「おのれに対して、きびしい」 人物を師として仰いだ僕の人生は、つらい人生になってしまいました。 |
▼ このウインドウを閉じる |