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Hope is but the dream of those that wake.

 
 20年前、30歳の若さで、コッド 論文に対して異議を申し立て、データベース・セミナー の講師として、聴衆に対して挑戦的な言いかたをしていた若者 (小生のこと) も、いまでは、白髪が増えて、老眼になってきました--当時、セミナー の アンケート では、「(僕の) しゃべりかたが生意気だ」 とも綴られていました(笑)。

 若者の伸びてくる過程を観るのが愉しい。
 そして、そういう人たちに対して、できるかぎりの助言をしたい、と思っています。時代が変わっても、そういう若者は、いつも、世間から白眼視されるでしょうから。僕が味わった同じ苦労を、そういう世代には、してほしくない。「しなくてもよい」 そういう苦労を、あらかじめ、回避して、我々の世代を踏み台にして、さらに、一歩を進めてほしい。
 そう願って、僕は、ホームページ を綴っていますし、大嫌いな世間のなかに、ノコノコ と、恥を晒しに出ています。

 青春時代に抱いた夢を実現した人は幸いです。でも、おおかたの人たちは、家庭を養い、仕事に追われて、いつしか、その炎もくすぶるのではないでしょうか。それでも、夢の灯は、たとえ、かすかになっても、消え入ることはない、と思いたい。

 夢が明るい性質を帯びていることは確かだけれども、いっぽうで、夢に対する憧れは、「ロマン」 という ことば を使ったとたんに、やや、「哀愁」 の ニュアンス を帯びるようですね。夢を抱いているのだけれど、実現できそうもないし、でも、捨てることができない、という ジレンマ が哀愁感を帯びるのかもしれない。ほかの人たちには、きっと、理解されない孤独な夢が ロマン なのかもしれないですね。

 年配のひとが、長い人生体験を楯にして、若いひとが抱いている夢や理想を、「甘い」 とか 「世間を知らない」 というふうに、切り捨てる態度に対して、僕は、怒りを感じて、異議を申し立てたい。「若い」 というのが、若いひとの 「取り柄」 です。年配のひとも、かって、若者として、未知数だった。未知数としての青春のなかで、理想や夢という曖昧なものを、懸命になって、育てている若い人たちを見下げる態度は止めていただきたい。「甘い」 とか 「世間を知らない」 という ことば は、年配のひとが、みずからの人生を振り返って、悔恨として出てきたのかもしれないけれど、次世代の人たちに対する忠告 (助言) の ことば ではない。
 若い人たちは、夢を、臆することなく、気負うことなく、平然と語ることのできるひとになってほしい。

 
 (2004年8月23日)


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