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Time is, time was, and time is past. |
長い過去は長い記憶であり、長い未来は長い期待である。時間は心の拡がりである。 アウグスチヌスの時間論は、(「告白録」のなかに記述されていますが、近代科学の物理学的時間論が出る以前では、キリスト教的な考えかたとして、) 最高の考えかたであり、西欧では、時間論に関して、アウグスチヌスの考えを超える論はない、とすら言われているそうです。 近代科学では、「時間」を、4次元空間の1次元的現象として考えます。アインシュタインやホワイトヘッドが、それを示しました。僕は、アインシュタインの書物を読んでいないのですが、ホワイトヘッドの書物を読みました。ホワイトヘッドは、(アインシュタインとは違う視点に立って、) 「モーメント」概念を前提にして、4次元的な「時空的空間 (あるいは、時空的時間)」を提示しています (「科学的認識の基礎」のなかで、おおまかな考えかたが記述されています)。
カルナップは、「空間論」のなかで、「空間」には、以下の3つがあることを整理しました。 カルナップは、ホワイトヘッドの文献を読み込んでいたようです。
現代の我々は、時計が身近にあって、いつでも、「時間 (時刻)」を知ることができますが、近世以前では、「時計」(時を打つ)は、教会・政庁の象徴でした。
我々が、普段の生活のなかで考える時間というのは、ほとんど、直感的時間でしょうね。直感的時間のなかでは、人生は、日々の生活が堆積した距離であり、逆に言えば、日々の生活は、人生という建物を作る構成物として考えられます。 アナログ表示とデジタル表示を、適宜、切り替えながら、直感的時間をコントロールしなければならないのでしょうね。計画 (と統制) は、アナログ的に考えて--「時間」を距離に変換して、道筋を考えて--、実行は、デジタル的に--(計画どおりに進むことを前提にして、) 前後裁断して、一瞬ごと、集中力を注いで--考えたほうがよいのかもしれない。 |
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