▲ このウインドウを閉じる |
You never know what you can do till you try. |
「精神」が、もし、「知・情・意」を まとめる概念であるのなら、「精神」は、「反応と作用」という現象として現れるでしょう。もし、「精神」そのものが、進路をもたない力だとすれば、外(そと) から及ぼされた作用が、進むべき道を示してくれたら、おおかた、満足するのではないでしょうか。
たとえば、「計画」を作成したら--これから、それを実現するために、地道に、「身体」を使わなければならないのだけれど--、計画を作成した時点で、もう、満足してしまう傾向があるようです。 「考える」という営みは、なんらかの「身体的な」形として現れるようです。たとえば、彫刻として、西洋では、「考える人」 (ロダン作) があるし、東洋では、(弥勒菩薩の) 「半跏思惟」像があります。逆に、思考を停止した「身体的な」形が、命令を仰ぐ際に取る「直立不動」の姿勢でしょうね--僕は、いかなる意味でも、「直立不動」の姿勢を嫌悪しています。 「精神」が、「反応・作用」と切り離すことができないなら、もし、「精神」を、一言で記述すれば、「注意力の質」と云っても良いでしょう。「注意力の質」が、つよい形として現れた現象が、「集中力」でしょうね。
集中力は長続きしない。集中力には、つねに、緩急のリズムがあるようです。 「集中力がない」と、嘆く人たちがいますが、「集中力がない」のではなくて、集中力を活かすための「無為の」休息を、巧みに作ることができない、ということではないでしょうか。
考えることに疲れたら、試しに、小一時間ほど、早足歩行をやってみてください--ふつうの歩きかたに比べて、2倍ほどの速度で、小一時間、歩いてみてください。たっぷりと汗が出るくらい歩いてみてください。きっと、爽やかな気持ちになるでしょう。そして、シャワーを浴びて、再び、考えることに集中すれば良いでしょう。 |
▼ このウインドウを閉じる |