「相手の自画像が出るまで待つ」ということを、私は、多々、言う。 だが、自らの生活を振り返って、果してそうであったか。 待ち切れぬ焦りから、他の事に着手し、多忙であることが実りあることだ と思い込んで、不安を安直にスリ替えてはいなかったか。 私は、挫折を蒙るであろう悲惨な結末を弁明することなく、黙って直視できない意気地なしである。
「最後の審判」を、静かに待つ。「人事を尽くして天命を待つ」とは、そういうことである。 一事を成そうとする人の心得えであろう。
「待つ」 ということは、逸る熱情を抑えて、沈潜し切って、つきまとう邪念を解脱した祈りの行為をいうのではないか。我身を清める無償の行為である。
(2004年10月23日)