有島武郎は、私が好きな小説家たちの一人です。私は、かれの 「全集」 を所蔵して読み込んできました。かれは、ひとつの作品の終わりをまとめるのが巧みな作家だと思います。たとえば、「或る女」 の終わりかたや 「カイン の末裔」 の終わりかたは、白眉だと思います。「或る女」 も 「カイン の末裔」 も、
読んでいると、生々しい映像が浮かんでくる作品です--私は、それらの作品を読んでいて、まるで、映画を観ているような感覚を抱きました。
かれの作品のなかに、「生まれいずる悩み」 があります。この作品の終わりかたは、かれのほかの作品の白眉な終わりかたに比べて、野暮ったいと私は感じています。ただし、私は、この作品の出だしに対して頗 (すこぶ) る共感を抱いています。「生まれいずる悩み」 の書き出しを以下に引用します。
私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。ねじ曲がろうとする自分の
心をひっぱたいて、できるだけ伸び伸びしたまっすぐな明るい世界に出て、そこ
に自分の芸術の宮殿を築き上げようともがいていた。それは私にとってどれほど
喜ばしい事だったろう。と同時にどれほど苦しい事だったろう。私の心の奥底には
確かに--すべての人の心の奥底にあるのと同様な--火が燃えてはいたけれども、
その火を燻 (いぶ) らそうとする塵芥 (ちりあくた) の堆積はまたひどいものだった。
かきのけてもかきのけても容易に火の燃え立って来ないような瞬間には私はみじめ
だった。私は、机の向こうに開かれた窓から、冬が来て雪にうずもれて行く一面の
畑を見渡しながら、滞りがちな筆をしかりつけしかりつけ運ばそうとしていた。
寒い。原稿用紙の手ざわりは氷のようだった。
小説家であろうが数学者であろうが哲学者であろうが、そして エンジニア であろうが、「作品」 を作る仕事に携わっている人たちは、「生まれいずる悩み」 の書き出しに吐露されている苦しみを、かつて、いくども、味わってきたと私は想像します。少なくとも、私は、TM (T字形 ER手法) を作る過程で、この苦しみを味わってきました。そして、その苦しみを的確に記述している 「有島武郎の小説家 (プロフェッショナル) としての筆づかい」 の巧みさに対して賛嘆しています。
この すばらしい書き出しに対して、終わりかたが野暮ったいと私は感じています。「生まれいずる悩み」 の終わりかたを以下に引用します。
君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、
力強く、永久の春がほほえめよかし・・・・僕はただそう心から祈る。
この終わりかたは、結婚式の スピーチ にでも出てきそうな、あるいは、手紙文の書きかた事典で 「結び」 の型として出てきそうな ありふれた 文ですね。
「生まれいずる悩み」 の構成は、音楽作品でいえば、ベートーヴェン の交響曲第九番と 「同型」 だと私は感じています。いずれの作品も、不安・陰鬱を吐露する低い曲想ではじまって--でも、それを記述する技術は高度なのですが--、結びは、歓びを謳歌するという構成です。そして、いずれの作品も、終わりかたは、専門家から観れば、技術的には、出だし と比べて、「粗い」 のではないかと想像します。私は音楽の専門家ではないので、スコア を読みながら、技術の善し悪しを判断できないのですが、少なくとも、シロート の私が、「第九」 のなかで、交響曲の ムーブメント (第三楽章まで) と コーラス (最終章) では、質的な高低があるように感じるのだから。でも、そう感じるのは、音楽技術を知らない シロート の単なる 「(曲想の) 好き嫌い」 にすぎないのかもしれないですね。ちなみに、「第九」 のなかで、私は、第三楽章が好きです。第三楽章は、「夢うつつのなかで、まどろんでいるような」 ゆったりと流れる (Adagio molto e cantabile) 楽章です。そういえば、サン・サーンス の交響曲第三番 (2楽章形式) も、ベートーヴェン の 「第九」 と対比して、楽章構成は相違しますが、展開法は同型ですね。私は、サン・サーンス の交響曲第三番を大好きなのですが、最終章 (第二楽章) の 「オルガン」 に対しては、どうも、抵抗を感じています。最終章の後半で オルガン の音が拡がるように響りわたるのを 「筆舌に尽くしがたい」 と絶賛した音楽批評家がいましたが、私の耳に すんなりと入ってこないのは シロート の悲しさかしら、、、。
ベートーヴェン の 「第九」 の 最終楽章 (コーラス) にしても、サン・サーンス の 「三番」 の最終楽章 (オルガン) にしても、私には、構成上、「突飛 (とっぴ)」 に感じるのですが、、、。
(2006年10月23日)