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Adagio molto e cantabile |
有島武郎は、私が好きな小説家たちの一人です。私は、かれの 「全集」 を所蔵して読み込んできました。かれは、ひとつの作品の終わりをまとめるのが巧みな作家だと思います。たとえば、「或る女」 の終わりかたや 「カイン の末裔」 の終わりかたは、白眉だと思います。「或る女」 も 「カイン の末裔」 も、
読んでいると、生々しい映像が浮かんでくる作品です--私は、それらの作品を読んでいて、まるで、映画を観ているような感覚を抱きました。
かれの作品のなかに、「生まれいずる悩み」 があります。この作品の終わりかたは、かれのほかの作品の白眉な終わりかたに比べて、野暮ったいと私は感じています。ただし、私は、この作品の出だしに対して頗 (すこぶ) る共感を抱いています。「生まれいずる悩み」 の書き出しを以下に引用します。
私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。ねじ曲がろうとする自分の この すばらしい書き出しに対して、終わりかたが野暮ったいと私は感じています。「生まれいずる悩み」 の終わりかたを以下に引用します。
君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、
「生まれいずる悩み」 の構成は、音楽作品でいえば、ベートーヴェン の交響曲第九番と 「同型」 だと私は感じています。いずれの作品も、不安・陰鬱を吐露する低い曲想ではじまって--でも、それを記述する技術は高度なのですが--、結びは、歓びを謳歌するという構成です。そして、いずれの作品も、終わりかたは、専門家から観れば、技術的には、出だし と比べて、「粗い」 のではないかと想像します。私は音楽の専門家ではないので、スコア を読みながら、技術の善し悪しを判断できないのですが、少なくとも、シロート の私が、「第九」 のなかで、交響曲の ムーブメント (第三楽章まで) と コーラス (最終章) では、質的な高低があるように感じるのだから。でも、そう感じるのは、音楽技術を知らない シロート の単なる 「(曲想の) 好き嫌い」 にすぎないのかもしれないですね。ちなみに、「第九」 のなかで、私は、第三楽章が好きです。第三楽章は、「夢うつつのなかで、まどろんでいるような」 ゆったりと流れる (Adagio molto e cantabile) 楽章です。そういえば、サン・サーンス の交響曲第三番 (2楽章形式) も、ベートーヴェン の 「第九」 と対比して、楽章構成は相違しますが、展開法は同型ですね。私は、サン・サーンス の交響曲第三番を大好きなのですが、最終章 (第二楽章) の 「オルガン」 に対しては、どうも、抵抗を感じています。最終章の後半で オルガン の音が拡がるように響りわたるのを 「筆舌に尽くしがたい」 と絶賛した音楽批評家がいましたが、私の耳に すんなりと入ってこないのは シロート の悲しさかしら、、、。 |
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