数学者の仕事に対して私が魅了される理由は、かれらの仕事の進めかたが私の やりかた とは 対照的だからかもしれない。私の仕事は、経営過程 (「情報」 が伝達される管理過程) に対して構造を与えることであって、具体的に伝達される 「情報」 の世界から離れようとはしないし、その世界だけが改良を確実に進めるに足る世界として私には経験されるから。
私の性質は、おそらく、物事を抽象的に考えることが苦手なのかもしれない。推論とは 「抽象的に考える」 ことである、と私は思っていない。抽象性とは、観たり聞いたりして捉えた 色々な物事のなかから、共通する性質を直知する頭のはたらきであるとすれば、推論は、「手続き」 であって、いかなる抽象性も帯びていない。私は、推論を苦手としていないが、対象を抽象化するのが苦手なようです。
抽象化が苦手な私でも、勿論、たとえば、自動車・電車・飛行機・船を対象にして 「乗物」 として総括できるくらいの常識的な抽象化はできますが、或る数学的構造をもった クラス を さらに抽象化するような高度な抽象化が私には難しい。こういう高度な抽象化は、当然ながら、専門的に訓練しなければならないのでしょうね。私は、一般の読者として 数学の書物を読んでいるのであって、数学を専門的に学習した訳ではないので、こういう高度な抽象化ができないのでしょうね。
さて、個々の事象に即した 「実践」 は、神秘主義の性質を帯びるようです--ウィトゲンシュタイン の哲学は、神秘主義であると云われてきました。神秘主義という ことば を文字通りに理解すれば、「実践」 は、かならず、神秘主義を帯びるのは当然のことではないでしょうか。というのは、対象との相互作用のなかで営まれる 「実践」 には、かならず、「曰く、『言い難し』」 という神髄があって、その神髄は、行為のなかでしか示すことができないから。
そして、私が一番に毛嫌いするのは、「実践を装った画一性 (あるいは、抽象化を装った実践)」 です。すなわち、物事を一見したのみで、パターン 化して 「それは、こういうことだ」 と言い切って済ましてしまう態度を私は嫌っています。少なくとも、私は、そういう態度に陥らないように用心しているつもりです。そういう態度を、荻生徂徠は 「習之罪」 と云いました。
(2007年 1月 8日)