荻生徂徠は、「徂徠集」 のなかで以下のように言った。
(参考 1)
孔子は言われた。「『詩経』 を学ばなければ、言葉が出せない」 (「論語」季氏) と。
むかし、不朽に樹立されるものが三つあるといわれた。徳を立てるとは、これ以上の
事業はない。功を立てることも、それに近いとしてよかろう。ただ不朽に言を立てる
場合は、「善言」 のみが不朽となる。だから 「詩経」 三百篇の詩は、大半は田夫や
若い女の口から出たものであるが、その素朴な短い文例が、明君の詔勅や宰相の
献策などと並んで、日月を空にかかげたように明らかなのである。
唐・宋を経過するうちに名理の説が発生した。そこではじめて、精 (くわ) しいもの
だけを選んで粗 (あら) いところを捨て、教えについて語るときは礼楽を無用のもの
とし、政治について語るときは周の制度を藁人形同様とし、文章について語るときは
表現を屑 (くず) のようなものとして、理屈によって つたない点を隠し、強弁に技巧
を示すようになった。たとえば法規に うるさい小役人のようなもので、人が見れば
知恵者だと思うだろうが、われわれは口さきの ごまかしに辛抱がならないのであって
(略)。これは温厚和平の趣旨をつかんでいないところから出ているので、(略)
孔子は、音楽に精通したひとだったそうである。徂徠は、みずから、漢詩を作った。徂徠は、[「反 コンピュータ 的断章 (2007年 4月 1日)」 のなかにも綴ったが ] (今風にいえば、) 言語学者として研鑽して、つぎに、漢詩を作る詩人として、さらに、晩年の 10年ほどは、独自の学説を打ち立てた哲学者として歩んだ。かれの生活態度は、「風雅文采」 を実践していた。
引用文は、「雨森顕允を送る序」 (「徂徠集」 巻十) の訳であるが、訳者の前野直彬 氏 は、訳文のあとで、以下の註を添えている。
対馬藩掌書記 雨森芳洲 は正徳四年 (1714)、藩主に従って江戸に入府し、子息
の顕允を徂徠の門下に託した。この序は その翌年、顕允が父にともなわれて帰国
するにあたって書かれたものである。芳洲は頑固一方の儒者ではなかったが、基本
的な立場は朱子学であり、徂徠の門下が詩文に溺れがちなのに不安を抱き、帰国
を口実に子息を連れ出したのだという説もある。
徂徠の言う 「格物致知」 は、言・辞 (ことば) を丁寧に調べて、事 (事態) を想う古文辞学であった。今風にいえば、セマシオロジー の やりかた である。言・辞と事が乖離しないように注意を払っていても、「ことば」 を対象にした しかた は、どうこうしてみても、「非生産的」 に写るのかもしれない。まして、「風雅文采」 が趣であれば、「趣味に耽溺した穀潰し」 に写るのかもしれない。徂徠は、みずからを 「怠け者」 と云っている。(参考 2)
中原中也 (詩人) は、以下のように綴った。
ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ
あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!
(中原中也、「山羊の歌」 のなかから 「憔悴」)
この気持ちが、「ことば」 と向かいあって、「其の胸にひつしと当つて ぬきさしなるまい」 状態に陥った詩人の誠意 (integrity) なのかもしれない。
(参考 1) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
210 ページ - 211 ページ。「雨森顕允を送る序」 (巻十)。
引用した文は、前野直彬 氏の訳文である。
(参考 2) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
246 ページ - 247 ページ。「訳文筌蹄 (せんてい)」 の題言のなかで、徂徠は、
みずからを 「怠け者」 と云っている。
(2007年 4月 1日)