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Plain dealing is a jewel, but they that use it die beggars.

 



 私は、「派閥」 に属することを嫌ってきた。そういう生きかたは、「政治的に」 下手な やりかた なのかもしれない。そして、そういう生きかたは、仕事を得る機会を、多々、喪ってきたのかもしれない。

 私は、学者ではないが、学問の成果を借用して、仕事で使うための技術を考えてきた。技術を考え出すことが私の仕事のなかで大きな比率を占めている。技術を考え出すほうが、その技術を使って収入 (金銭) を得ることに比べたら、私の興味を占めていたことは確かである。私は、企業家としたら失格なのかもしれない。

 私は、技術を考え出すことに専念してきたが、その技術を目玉商品にして、「派閥」 を作ろうということも、つゆぞ、考えなかった。

 荻生徂徠は、「徂徠集」 に収められている 「『訳文筌蹄 (せんてい)』 題言」 のなかで、以下のように述べている。(参考)

    ひとたび講学の店開きをすると、弊風にあおられ、目玉商品を出して買手を呼ぼう
   とするので、派閥ができてしまう。ある者は孔子・孟子の本来の趣旨は ここにある
   と言い、ある者は朱子学の正統が ここにあると言い、ひとたび枠ができると、数も
   知れぬ英才が、みなその網の中に入ってしまうこととなる。学問のありかたは、昔
   から 「飛耳長目 (「管子」 九守に見える語。遠方のものまで聞こえたり見えたりする
   意) といわれて、人の聡明さを増進させるものなのだ。

 こういう考えかたをする人物が企業を興してはいけないのかもしれない。しかし、考え出した技術が実践のなかで使われて役立つことを願っているならば、実践のなかに身を置いていなければならないことも、エンジニア の良心に係わる論点であると思う。

 


(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
    248 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。

 
 (2007年 5月 1日)


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