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It is as hard as for a camel to pass through the eye of a needle.

 



 荻生徂徠は、宋儒が 「道」 を 「事物当行の理」 として説いたことに対して、「答問書」 のなかで、以下のように非難しています。(参考)

    そのうえ、「事物当行の理」 という言葉は、この世の中の何事にでも広く あて
   はまる言葉です。茶の湯・生花・和歌・書道・剣術、あるいは小笠原流の立ち居
   振舞いにも、上下 (かみしも) の着こなしにも、大小の指し方にも、これはこうある
   べきはず、それはそうあるべきはずという、ちょうどよいくらいの塩梅 (あんばい)
   というものはあるものでしょう。しからば、これが みな聖人の道というものなので
   しょうか。事は違っても理は同じことと考えて、右のような類まで聖人の道と考え
   るのなら、これは まことに杜撰 (ずさん) も はなはだしいと言わねばなりません。

 小林秀雄 (文芸批評家) は、「美しい花がある。『花』 の美しさという様なものはない」 という名文句を遺しています。

 学問上、現実の事象を対象にした定式化は、適用領域 (object domain) を限っています。というのは、定式化は、「構造 (性質・関係)」 を明らかにすることだから。そして、定式化は、対象のあいだに観られる相違点も類似性と同等に配慮します。というのは、定式・法則が どこまで適用できるかを考えなければならないから。

 そういう技術を指導されてこなかった小悧巧なひとが、定式を安直に用いて、ものごとを総括したがるようですね。定式を用いることは、「事が違っても理は同じこと」 と考えているかぎり、本人が思っているほど、賢い訳ではない。というのは、定式が 「真」 であるためには、前提が 「真」 でなければならないので、言い換えれば、定式が妥当であるならば、「真」 なる前提から 「偽」 は導かれないので、かならず、「前提」 が確認されなければならないから。したがって、この確認を はしょるから、「事が違っても理は同じこと」 という罠に陥るのでしょうね。小悧巧なひとは、定式の結末のみを むやみに適用しているにすぎない。

 ちなみに、「真」 なる結論を導く 「無矛盾な」 推論は、ひとつではなくて、いくつも作ることができます。逆に言えば、結論から、推論を憶測することはできないということです。小悧巧なひとは、こんな当たり前のことも見落としているようですね。

 


(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
    288 ページ。引用した訳文は、中野三敏 氏の訳文である。

 
 (2007年 6月23日)


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