荻生徂徠は、「学則」 のなかで、以下のように述べています。
(参考)
私は宇鱗氏の教えを奉じて、古代を見つめつつ修辞を研究し、習熟に習熟をかさね、
時間をかけるほどに それと同化して、表現も精神も すべて似るようになった。表現も
精神も すべて似てしまえば、目で見、口で言うことが、古代中国の人と何の違いも
なくなる。こうなった後は、先年以前の人でも毎晩つきあうことができる。これを、わが
身を孔子の時代におき、子游・子夏などの人々について、親しく授業を受けるという
のである。
これが読書の ありかた かもしれないですね。というのは、学習とは、まず、習ったことを 「再現」 することだから。
そして、読む対象に対して絶大な 「信」 を置いていなければ、そういう読書はできないでしょうね。「座右の書」 というのは、そういう読書ができる書物のことなのでしょうね。私の 「座右の書」 は、ウィトゲンシュタイン・道元禅師・荻生徂徠です。ただただ かれらの中へ入ればいい。かれらに連れられてゆけばいい。
人生はいつたのしいか
気持がひとつになり切った時だ
(定本 八木重吉 詩集)
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
90 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(2007年 7月 1日)