「信じるほかに べつに仔細なし」 ということは、どういうことなのか。それは、「狂信」 ではない。
荻生徂徠は、「学則」 のなかで、以下のように述べています。
(参考)
因果応報のめぐり合わせによって、生まれ変わり、死に変わる、という輪廻転生の
ことについて、種々と お尋ねですが、私は儒学はいたしましたけれど、仏学はいたし
ておりません。輪廻転生のことは仏説に出てくることなので、仏者に お尋ねなるべき
かと存じます。ただし、朱子学の説に、あらゆる現象が存在する その根拠としての
「理」 と、また その具体的な現象の素材としての 「気」 とを考える、理と気の論で
もって輪廻ということを否定したのは、理屈の上だけのことです。朱子学者も その
目で地獄とやらを見たわけではなく、ただ理屈でもって輪廻などはないことと言った
にすぎません。また仏者の方も大体は理屈で輪廻はあるはずだと言っております。
儒者・仏者に限らず、理屈で言うことは みな推量して言うだけのことで、それは本当
のこととは言えません。結局つまるところは、仏者は釈迦の言葉を信じて輪廻はある
と言うわけです。
私は釈迦を信仰いたしておりません。聖人を信仰いたしております。ですから聖人
の教えにないことでしたら、たとい輪廻ということが実在しましても、そんなことは
構いません。そのわけは、聖人の教えだけで、この世のこと何もかも事足りて不足な
ことはない、ということを私は深く信じておりますので、このように考えが定まって
いるのです。しかし私の考えを貴方も用いよと言っているのでは、決してありません。
お尋ねになったので、私の考えを申し上げたまでです。
ちなみに、徂徠の言う 「聖人」 とは、民衆を安泰にするための制度・政策を作った王 (具体的には、古代中国の経書 「六経」 に記されている先王たち) のことです。
徂徠は、気負わないで おおらかに、「信じる」 ということが どういうことなのかを明らかにしています。私は、徂徠の この文を読んだときに感じた沈着さ・悠然さを、アウグスチヌス・スピノザ・道元禅師を読んだときにも感じました。「信じるほかに べつに仔細なし」 ということは、たぶん、「考えぬいて至った 『信』 は、『愛』 と切り離して考えることはできない」 ということなのでしょうね。だから、狂信に陥らないのでしょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチ は、以下の名言を遺しています。
知ることが愛することだ。
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
90 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。
(2007年 7月 8日)