荻生徂徠は、「答問書」 のなかで、以下のように述べています。
(参考)
学問の方法や順序は、先輩の導きがなくては、道筋を誤ることになります。
教えてもらったことに疑問ができたら、何度でも お尋ねになるのがよいの
です。とにかく私の考えを問い尽くされて、それでも納得がゆかない時は、
自分で いろいろと工夫をされ、あるいは納得できないながらも、しばらくは
私の教えのままに学ばれて、どうにも私の申し上げるのが よくないときまった
ら、用いないようにするのが正しい道筋です。無理にでも私の教えに従う
ように、というのでは決してありません。
私は、30歳代の頃、「他流試合」 を数多くやって、相手を論破して、みずからの説が正しいことを示してきました。いま振り返ってみれば、そういう やりかた が痴愚であることを悟っています。「真理を追究する」 という営み (学問) では、教師も ひとりの学徒です。学徒たちのなかで先輩であるというにすぎない。そうであれば、みずからの考えかたを 「他流試合」 で誇示しないで、学問のなかで正しいとされて継承されてきた知識に照らして、つねに推敲することを考えるのが正道 (学びの良心) でしょうね。「他流試合」 を多くやったとしても、試合数は知れているし、弱い相手を数多く倒してきても、「目糞、鼻糞を笑う」 の類にすぎないでしょうね。
「思想の花びら」 (2007年 8月 1日) で、森鴎外の ことば (「学殖なきを憂うる」) を引用しました。ここで、さらに、アリストテレス の ことば を引用しておきましょう。
Plato is dear to me, but dearer still is truth.
(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
344 ページ。引用した訳文は、中野三敏 氏の訳文である。
(2007年 8月 1日)