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The sorrow in my hear so great that it almost crushes me. (Matthew 26-38)

 



 ウィトゲンシュタイン (哲学者) は、ブラームス (作曲家) に関して、以下のような意見を 「雑考」 ノート に記述しています。

  ブラームス は映画に あわない。それは、彼が あまりにも抽象的だからだ。
  逆に、ブルックナー は、映画向きだ。

 なるほどなあ、と私は思います。ただ、ブラームス の交響曲第三番の第三楽章は、映画に使われています──その楽章は、哀愁を帯びた曲想で、恋愛物には あうでしょうね。また、イブモンタン (フランスのシャンソン 歌手) は、この楽章に歌詞を付して歌っています (NHK の 「ラジオ 深夜便」 で、「イブモンタン 特集」 を放送したときに、私は、偶然に、この曲 「ブラームス はお好き」 を聴きました)。

 ウィトゲンシュタイン が ブラームス の どういう作品を聴いていたのかを私は知らないので、ウィトゲンシュタイン が 「ブラームス は映画に あわない」 と言った理由を推測することができないのですが、少なくとも、ブラームス の作品のなかで 「世間に ウケ のいい作品」 は、映画に あうように思われます。ブラームス の作品に対する通俗的評価として、「燻 (いぶ) し銀のような」 という レッテル が疎通していますが、もし、この評が 「古典的」 という意味であれば私は同感しますが、「人生の酸いも甘いも噛み分けた」 という意味であれば納得しかねます。

 たとえば、ブラームス の代表作といわれている交響曲第四番では、第一楽章が 「溜め息の モチーフ」 と愛称されてきたように、なにかを切々と訴えるように、哀愁を帯びた曲想なので、しかも、ブラームス の晩年に作られた作品なので、「人生の黄昏 (たそがれ)」 を記した作品として 「解釈」 することもできるのですが、寧ろ、この曲は、作曲法として、「古典的」 な テクニック を使っていることのほうに私は惹かれます──すなわち、第二楽章を聴いて感じる 「哀愁・物憂さ」 は、教会音楽の フリギア 旋法が使われ、第四楽章で感じる 「悲劇的・諦観的」 な楽想は、(ソナタ 形式ではなくて、バッハ 以後ほとんど使われなかった古い変奏法の) パッサカリ が使われています。私は、音楽の シロート ですが、ブラームス の 「構成力」 に対して惹かれています。

 交響曲の構成は、ふつう、以下の四楽章形式です。

  第一楽章 ソナタ 形式
  第二楽章 歌謡形式 (ゆるやかな曲調)
  第三楽章 舞踏形式 (メヌエット、あるいは スケルツォ)
  第四楽章 ロンド 形式、あるいは ソナタ 形式

 勿論、四楽章に限らず、一楽章形式や二楽章形式や三楽章形式がありますが、上述した曲調の変化は、なんらかの形で作られています。 第一楽章・第四楽章の ソナタ 形式は、「ソナタ・アレグロ」 形式といわれ 「速い曲調」 です。第二楽章は、アダージョ (ゆるやか、アンダンテ と ラルゴ のあいだの速さ) が使われます。メヌエット は、3/4 拍子で 8 小節を繰り返しますが、ベートーヴェン が メヌエット の代わりに スケルツォ (速い 3拍子) を用いてから スケルツォ が使われるようになったそうです。ロンド 形式は、ソナタ 形式に呼応するので、「ロンド・ソナタ」 形式ということもあります。

 さて、ブラームス の交響曲第四番は、以下の曲調になっています。

 (1) 第一楽章 アレグロ
 (2) 第二楽章 アンダンテ
 (3) 第三楽章 アレグロ (ロンド)
 (4) 第四楽章 アレグロ (パッサカリ)

 第三楽章に ロンド を使ったので、第四楽章の アレグロ として パッサカリ を使ったのかもしれないですね。

 ブラームス の交響曲第四番に似た曲想 (哀愁、憂鬱さ) として、チャイコフスキー の交響曲第六番を私は思い浮かべます。ちなみに、チャイコフスキー の交響曲第六番は、以下の曲調です。

 (1) 第一楽章 アダージョ-アレグロ
 (2) 第二楽章 アレグロ
 (3) 第三楽章 アレグロ
 (4) 第四楽章 アダージョ

 興味深いことに、ふたつ交響曲の曲調を対比してみると、逆になっていますね。ふたつの交響曲は似た曲想ですが、曲調の構成法は逆になっています。
 どちらの交響曲を好むか は嗜好に関する判断なので比較できないのですが、私は、< アレグロ, ・・・, アレグロ > と いう構成で 「哀愁」 を抑えるように表現した ブラームス のほうを好んでいます。< アダージョ, ・・・, アダージョ > と いう構成では、情感が直截に揺さぶられて、あまりの直截さに対して うんざりして 「もう、いいよ」 と言いたくなるので。(注意)

 ウィトゲンシュタイン は、(ブラームス に関して、) 以下のような意見も綴っています。

  ブラームス は メンデルスゾーン が中途半端な きびしさでやったことを、
  完全な きびしさでやっている。あるいは、ブラームス は しばしば、誤り
  のない メンデルスゾーン である [ と、言えよう ]。

  ブラームス における音楽的思想のつよさ

 
(注意) 私は音楽の シロート であって、歴史に名を遺した大作曲家である チャイコフスキー の作品について、どうこう言うほどの音楽的知識はないのであって、ここに記した私の意見は、あくまで、私の 「嗜好」 を述べている点にすぎないことを追記しておきます。
 チャイコフスキー の交響曲第六番が生まれた歴史的 バックグラウンド (当時の 「暗黒の時代」) を、音楽の シロート である私でも理解しています──ちなみに、この時代には、ドストエフスキー の文学も生まれています。
 ただ、作品の 歴史的 バックグラウンド をぬきにして、作品を聴いたときに、私の 「嗜好」 では、チャイコフスキー の交響曲第六番は、「濃すぎる (鬱陶しさが うんざりするほどに迫ってくる)」 と感じます。そう感じる理由は、たぶん、私が (この交響曲が初演された 1893年から 115年後の) 現代に生きているからでしょうね。当時、この交響曲を聴いた人たちは、「現実の」 暗澹たる時代を感じて涙を流したそうです。

 
 (2008年11月 1日)


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