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you are a rock, and on this rock foundation I will build my church. (Matthew 16-18)

 



 ウィトゲンシュタイン は ブルックナー について以下の意見を述べています。(参考 1)

    ブルックナー の第九は、いわば、ベートーヴェン の第九に対する
    反抗だ。そのおかげで、なんとかがまんできる曲になっている。
    もしそれが一種の模倣として書かれたのなら、どうしようもない曲に
    なっていたであろう。(1938年)

 さて、ブルックナー の交響曲について語るときに、かれの代表作として、第八番を選ぶか、あるいは第九番を選ぶか は、ひとによって意見が分かれるかもしれない。私は、ウィトゲンシュタイン とは反対の意見をもっていて、ほかの作曲家の交響曲もふくめても──(クラシック 音楽の) 交響曲全体のなかで──、ブルックナー の第九番を非常に好きです。勿論、ベートーヴェン の第九番も好きです。

 ウィトゲンシュタイン が ブルックナー の第九番を ベートーヴェン の第九番に対する 「反抗」 であると述べた理由を私は推測することができないのですが、ブルックナー の第九番は、「形式」 において、ベートーヴェン の第九番を参考にしているのは確かでしょうね。ベートーヴェン の第九番が ニ短調なので、ブルックナー も ニ短調にこだわったようです。ブルックナー の第九番は、以下の曲調で構成されています。

  第一楽章 荘重に、神秘的に
  第二楽章 スケルツォ
  第三楽章 アダージョ

 第四楽章は かなり作曲が進んでいたそうですが、「未完成」 のまま終わっています。ブルックナー 自身は、第三楽章の後続として 「テ・デウム」 (かれの すでに公表されていた作品) を演奏してほしいと希望していたそうです。

 ベートーヴェン は ピアニスト としても名手だったそうですが、ブルックナー も (リンツ 会堂の) オルガン奏者として名手だったそうです。そして、ブルックナー は、ウィーン 音楽院の ゼヒター 教授から音楽理論を学んでいます。ロマン 派音楽に親しんでいる人たちなら、高名な ゼヒター 教授のことは知っているでしょう──シューベルト が、最晩年、対位法について知識が足らないことを嘆いて、教えを乞おうとしていた教授です。ゼヒター 教授は ブルックナー が 44歳のときに亡くなって、音楽理論と オルガン演奏に関して、ブルックナー に後任の声がかかりましたが、ブルックナー は乗り気ではなかったそうです。というのは、リンツ 会堂の オルガン 奏者の職に対して愛着を感じていたとのこと。最終的には、或るひとの勧めで、ブルックナー は ウィーン に移りました。ただ、ウィーン では、かれは評価されなかったそうです。
 ブルックナー の性質を志鳥栄八郎 氏は、以下のように まとめていらっしゃいます。(参考 2)

    俗物や気取り屋たちに気に入られるような要素が彼には全然なかった
    からである。彼は子どものように純真な気持ちの持ち主で、音楽以外の
    ことには一切関心を持たず、日頃新聞もろくろく読まないといった具合で
    世間的な俗事には大変うとかった。そのうえ、振る舞いが北 オーストリア
    訛りまる出しの、粗野な田舎者然としていたので大変ばかにされていた
    のである。

 当時、ウィーン 音楽界は、ヴァーグナー 派と ブラームス 派の ふたつの派に分かれて対立していたそうです。そして、ヴァーグネリアン の ブルックナー は、ブラームス 派の評家たちから──特に、辛辣な評家として名高い ハンスリック から──烈しく叩かれたそうです (たとえば、「半分は天才だが半分はばかな奴で、反音楽的なたわごとをまき散らす男」 というふうに非難されたとのこと)。ブラームス でさえも、以下のように言って ブルックナー を非難したそうです。
(参考 3)

    内容が全くないのに、いたずらにこけおどし的な大きさをもった
    化け物のような交響曲など、じきに忘れられてしまうさ

 たしかに、ブルックナー の交響曲は いずれも長いですね──演奏時間でいえば、短い作品でも 1時間くらいだし、長い作品だと 1時間半くらいなので、私は、よほど体調が良いときでなければ、ブルックナー の ひとつの交響曲を聴き通すことができない。

 ただ、敬虔な カトリック 教徒で世事に疎く禁欲的な生活を送って オルガン の名手で、ゼヒター 教授から音楽理論を真摯に学んだ努力家が 「内容が全くないのに、いたずらにこけおどし的な大きさをもった化け物のような交響曲」 を作るにすぎない山師的人物であるとは私には思えないので、そういう下らない評を口にした ブラームス は なんらかの先入観に囚われていたのでしょうね。
 ウィトゲンシュタイン は ベートーヴェン の音楽や ブラームス の音楽を愛でても、ブルックナー の音楽を好まなかったようです。

 ブルックナー の交響曲は、弦楽器の トレモロ で始まるのが特徴点です──この トレモロ は 「原始霧 (げんしむ)」 と俗に云われています。この トレモロ が第九番の第一楽章で 「荘重に、神秘的に」 と指示されて演奏されます。かれの交響曲は、たいがい、第一楽章と第四楽章が、「宇宙 (精神的な広大さ)」 を感じさせる音の広がりがあって、そのあいだの章で、アダージョ (あるいは、アンダンテ) と スケルツォ が置かれています。そういう構成が かれの交響曲では同じように展開されるので、かれの或る交響曲を聴いて交響曲の番数を思い出すのが なかなか難しい。そして、楽節の繰り返しが多いのも、かれの交響曲の特徴点です。
 かれの交響曲は、「ベートーヴェン の構想を骨格とし、シューベルト の旋律と、ワグナー の和声を血肉にして構成された」 というふうに まとめる音楽評論家もいます (神保m一郎)。(参考 4)

 20世紀の伝説的指揮者 フルトヴェングラー は、ブルックナー の音楽を高く評価して、ブルックナー 協会の会長を勤めて、ブルックナー の音楽を普及することに努めました。フルトヴェングラー の ベートーヴェン は、歴史に遺る名演ですが、いっぽうで、かれの ブルックナー も──録音状態は良くないのですが──たとえば、ブルックナー 第八番は 「精神的な高さと深さで、これを凌駕するような演奏はほかにはない」 (志鳥栄八郎) と云われています。私も フルトヴェングラー の ブルックナー が好きです (ただ、ブルックナー の第九番は カラヤン 版を お薦めします)。

 ブルックナー の音楽を聴いていると、不思議なことに──つまり、なんら これといった理由はないのですが──私には ブルックナー と カントール (数学者) が だぶってくるのです (謎)。

 
(参考 1) 「ウィトゲンシュタイン 小事典」 (山本 信・黒崎 宏 編)、87 ページ。

(参考 2) 「クラシック 名曲 ものがたり集成」、志鳥栄八郎、講談社+α文庫、470 ページ。

(参考 3) 「クラシック 名曲 ものがたり集成」、志鳥栄八郎、講談社+α文庫、471 ページ。

(参考 4) 「クラシック 音楽鑑賞事典」、神保m一郎、講談社学術文庫、557 ページ。

 
 (2008年11月16日)


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