三島由紀夫氏は、かれの著作 「『われら』 からの遁走」 のなかで以下の文を綴っています。
文学のおかげで、私はあらゆる アカデミック な知性を軽蔑する
ことができたし、肉体のはかなさをいささかでも救済することが
できた。その限りにおいて文学は精神にとつて (厳密に私一人
だけの精神にとつて) 有効であつたと考へられ、その上私は、
人を娯しませるといふ大道芸人の技術をさへ、多少は手に入れる
ことができたのだつた。
「私はあらゆる アカデミック な知性を軽蔑することができた」 という言いかたは、三島由紀夫氏のような第一級の小説家であれば言えることなのでしょうが、私のような凡人は、そこまで言えないし、寧ろ、「アカデミック な知性」 を尊敬しています──それでも、私は、文学愛好家として、青年時代から いままで文学を鑑賞してきて、文学が私の滋養剤であったことは確かです。そして、文学に親しんできたので、アカデミック な知性に対して inferiority を抱くことはなかったのも確かです──ただ、いっぽうで、青年時代に文学で味わった感覚が職業人になって実生活を営む以前に肥大してしまって、いわゆる文学青年が陥りやすい罠である 「世の中を見透かしたような」 錯覚に陥った──小林秀雄氏 (文芸評論家) 風に云えば、文学で得たことを 「装う」 罠に陥った──時期があったのも事実です。三島由紀夫氏は、いわゆる 「文学青年」 を フニャフニャ した青年として嫌っていました。
「人を娯しませるといふ大道芸人の技術をさへ、多少は手に入れることができた」 という文も、私は セミナー 講師を 25年間やってきて、共感を覚えます。
さて、三島由紀夫氏は、前述した文を前振りとして綴っていて、かれが述べたかった点は以下の点です。
幻の厳密性、あるひは厳密な法則によつて行使される幻、それを
人々は はじめ魔術と呼び呪術と読んだ。しかし人々はそこから、
形 (フォルム) の意味を、無数の人為的な条件に依拠する方式
の有効性を知つたのである。力のある思想は そのやうにして生れ
るものであり、数百万人を動かす思想は、火によつてよりも、形
(フォルム) によつて動かすのだ。なぜなら大多数の人間は、思想
の内容などにつひぞ注意を払はないからである。
文学の最大の困難はこの点にある。それは一瞥するだけの目には
何事をも語らず、要約は頭から不可能だからだ。文学は思想と同様
に、幻としての厳密な方式と形 (フォルム) を要求されながら、
つひにその有効性をも、方式と形の利益をも、わがものとすること
ができない。(略) 作品の全体の形は美しく単純であつても、その
フォルム の単純と美を知るのは、全部読んだあとでなくてはならぬ。
(略) いかなる作家の仕事も、忙しい世間からは、要約と、社会的
イメージ でもつて理解され、分類される。しかし、それは断じて、
彼の フォルム によつて理解されてゐるのではない。文学上の フォ
ルム は文体であり、作家の文体は、かくて甚だ孤立したものになる。
思想が フォルム によつて普及するところで、文学は フォルム に
よつて普及を妨げられる。そこで、弱気な作家たちは思想に色目を
使ふにいたるのである。
さすがに、第一級の小説家が綴る文は的確ですね。この文を かれは、文学の一般事項として述べているのですが、この意見は、かれの作品のなかで つねに守られている作法です。たとえば、かれの作品のなかで (思想を述べているかのように一見思われる) 「憂国」 でも、この作法を かれは貫いています──そして、「豊饒の海」 も そうです。
(2009年 1月16日)