2009年 1月 1日付けの 「反文芸的断章」 で、川端康成作 「眠れる美女」 の魅力について語りましたが、その作品の魅力として、ほかにも 「細部への こだわり」 を挙げることができるでしょう。三島由紀夫氏は、かれの著作 「裸体と衣裳」 のなかで以下の文を綴っています。
やつぱり小説の細部への魅力への信仰は捨てかねる。バルザック
が、小説は荘厳な虚偽であるから細部の真実に支へられなければ
ならなぬ、と云つたのは、私の言ふ意味とは少しちがつてゐて、
私のは、登場人物が、急に駆け出すときにどんな駆け方をしたか、
とか、泣きさうになつて涙を抑へたときにどんな表情になつたか、
とか、彼女の微笑に際してどのへんまで歯が露はれたか、とか、
ふりむいたときに衣服の背の皺がどんな風になつたか、とか、さう
いふ些末な描写に対する不断の関心と飽かぬ興味が、読者としての
私の中にも牢固として根を張つてゐるからである。かういふ点では、
外国の作家で モオリヤック ほど日本人の好みに合ふ作家はある
まい。
こんな細部の魅力は、必ずしも細部の真実といふことと同一では
ない。むしろ荘厳な虚偽といふのに対して、細部の精緻な虚偽と
でも云つたらよからう。しかし日本の小説の読者で、かういふ細部
の虚偽の出来不出来に敏感でない人はよほど例外であつて、アメリカ
小説が日本で大して受けないのは、この種の魅力い乏しいからで
ある。川端康成氏の小説はこれの集大成と云つていい。人の顔色を
読むことにかけては敏感な日本人らしい文学的好みであつて、今
それを急にどう変へるといふこともできない。(略)
この文を読んで、「なるほどなあ」 と私は思いました。
私が川端康成氏の作品に惹かれる理由も、その点にあるのだと思います。私は、大学受験に失敗して浪人になったとき、本来なら、受験勉強をやり直さなければならなかったのですが、受験勉強を怠けて、ひたすら、文学書を読みあさって──特に、川端康成氏と三島由紀夫氏を読んでいたのですが [ 当時、三島由紀夫氏の 「割腹自殺」 は、かれの作品を読んでいた私にとって衝撃でした ]──、川端康成氏の 「細部へのこだわり」 に対して非常に惹かれたことを思い出しました。「眠れる美女」 は、その典型的な作品でしょうね。
(2009年 2月 8日)