文学は、フィクション という形式的構成を通して 「真実」 を語る性質を有していますが、この性質に始終親しんでいると、「真実」 や 「美」 は作られた物にもかかわらず、否定できない実存のように感じてしまいます。そして、そういう状態に陥ったら、それら (真実・美) に無頓着な人たちを軽蔑しがちになるようです。それら (真実・美) を追究した作家たちは、たぶん、みずからの生活のほとんどを それらの追究に捧げて、その対価として それらを手にするのでしょうが、いっぽうで、作品は読み手がいなければ、ただの紙屑にすぎないので、純文学であっても読み手を意識しない訳にはいかないでしょう。真・美を追究した作家と、それらを意に介しない人たちを両極とすれば、読者は、その両極のあいだで、真・美に対する感興の程度に濃淡がある層ですが、文学作品を多く読んで、なまじ、真・美に魅了された人たちが、いちばん質が悪いようです──私も、この類に入るでしょうね (苦笑)。
三島由紀夫氏は、「裸体と衣裳」 という エッセー のなかで、上述した類の連中の錯覚を撃ち抜いた文を綴っています。
生活上の形式蔑視の精神や、事実尊重の精神は、民衆の空想力や
理解力を事実の領域へ解放することになり、万人向きの妥当な
民主的意見には、政治的意見を含めて、「願はしい真実」 の影
ばかりが揺曳することになる。万人が裸の真実を好まず、目の前
に醜い真実と美しい虚偽をつきつけられれば、必ず美しい虚偽の
はうを選ぶといふ発見は、政治家の第一資格ともいふべきで、
理想主義的な政治学はみんなこの発見に基づいてゐる。
さて、文学者の遣口はいささかこれとちがって、ぶざまな裸の
真実を美しい言葉で語って、それに 「願はしい真実」 と同等の
資格を獲得させることであるが、又、文学者だけが、単なる美しい
虚偽と願はしい真実との、微妙な ニュアンス の相違を見分ける
職能を持つてゐる。この職能が、一部の連中の間で、民衆的感覚
などと呼ばれてゐるところのものである。
さすがに、第一級の小説家の観察眼・記述力は見事ですね。
こういう文を われわれ シロート は読んで理解できても綴ることができないでしょう。
さて、文学愛好家というのは、真・美を孤独のなかで愛して他人との接触を厭うように思われがちですが、その実 (じつ)、他人を惹きつけて そそのかすのが巧いという資質があるようです──文学書を多数読んできて 「口が上手」 というのではなくて [ そういう点も特徴点ですが、さらに ] 「『願はしい真実』 の影」 を作るのが巧みだということ。「そそのかす」 という語を使ったように、私は、この性質を悪質だと思っています。私も、うっかりすると、この性質が顔を出そうとしますが、システム・エンジニア の仕事のなかで体得してきた 「形式的構成を作る (具体的な) 手続き」 を重視する性質が中和剤になって、なんとか ジレツタント (dilettante) のわだちに落ちないように歩いています──ただ、セミナー 講師として多数の人たちに語るときに、「『願はしい真実』 の影」 を語ろうとすることが たまに出てきて、セミナー のあとで、みずからに対して嫌悪感を抱いて眠れない、、、。
(2009年 2月23日)