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...even though I testify on my own behalf, what I say is true,... (John 8-14)

 



 三島由紀夫氏は、「『純文学とは ?』 その他」 という エッセー のなかで、次の文を綴っています。

     私は近ごろの文壇論争のごときものに全く興味がない。純文学が
    変質したの、アクチュアリティ がどうかうしたの、と一人が言へば
    一人がかみつき、一犬虚に吠えて万犬実を伝ふるの如き状況だが、
    その大本は、推理小説が売れすぎて、純文学が相対的に売れなく
    なったといふだけのことだから、笑はせる。(略) そのおかげで
    純文学が圧倒されたといふのは、菓子屋の繁昌のおかげで酒屋が
    衰へた、といふやうな変な議論である。

 そして、かれが林房雄氏と語ったときに、たまたま、純文学の定義とは何だろうという話が出て、林房雄氏が以下の定義を述べたことが綴られています。

    「純文学とは、まづ立派な美しい作文でなければならない。ちゃんと
    した文体を持つてゐなくちやならない。さうして、いつかは国語の
    教科書に残るやうなものでなくちやならない」

 林房雄氏の その定義に対して、対談のなかで、三島由紀夫氏は、以下の点を付け加えました。

     その上、純文学には、作者が何か危険なものを扱つてゐる、ふつう
    の奴なら怖気 (おぞけ) をふるつて手も出さないやうな、取り扱ひ
    のきはめて危険なものを作者が敢て扱つてゐる、といふ感じが
    なければならない、と思ひます。(略)

 三島由紀夫氏は、その対談で述べたことを エッセー のなかで さらに詳細に説明していて、エッセー では、以下の文を綴っています。

     危険であるから、取り扱ひには微妙な注意が要り、取り扱ひの技術
    は ますます専門的になり、おいそれと手も出せないものになる。
    作家にとつて、技術とは要するに言葉だから、ここに必然的に文体の
    問題が生ずる。純文学の文体とは、おそろしい爆発物をつまみ上げる
    ピンセット みたいなもので、その銀いろに光る繊細な器具の尖端まで、
    扱ふ人の神経が ピリピリ と行き届いてゐなければならぬ。
     更に、もう一つ先の問題がある。
     純文学は、と言つても、芸術は、と言つても同じことだが、究極的
    には、そこに幸福感が漂つてゐなければならぬと思ふ。それは表現
    の幸福であり、制作の幸福である。どんな危険な恐ろしい作業で
    あつても、いや、危険で恐ろしい作業であればあるほど、その達成の
    あとには、大きな幸福感がある筈で、書き上げられたときその幸福感
    は遡及して、作品のすべてを包んでしまふのだ。

 ここまで引用した文を対象にして なんらかの テーマ を定立して意見の述べるのであれば、私は、「純文学」 を 「モデル」 に入れ替えて、(「反文芸的断章」 ではなくて、) 「反 コンピュータ 的断章」 のなかで 「モデル の定義」 として翻訳したでしょうね (笑)。ここまで引用した文を 「反文芸的断章」 で扱った理由は、三島由紀夫氏が (上に引用した文を前提にして、) 以下の意見を述べているからです。

     ──右のやうないろんな条件を具備してゐる最近の文学作品と
    しては、たとへば、川端康成氏の 「眠れる美女」 をあげれば十分だ
    と思ふ。この恐ろしい完璧な作品に対する世間の評価は実にあいまい
    で、私は世間の盲千人に呆れたが、私は自信を以て、これを 「山の音」
    や 「千羽鶴」 の上に置きたいと思ふ。ただ一つの難をいへば、「眠れ
    る美女」 には少し幸福感が希薄で、これがこの作品の息苦しさのもと
    になつてゐると思ふが。(注意)

 私は、高校生の頃から文学書──しかも、ほとんどが、「純文学」──を読んできて、川端文学のなかで、「眠れる美女」 を一番に好きで、作家自筆の影印まで買ったことを、かつて、「反文芸的断章」 のなかで述べましたが、その作品に対する三島由紀夫氏の評価を知って、私の 「審美眼」 に狂いがなかったことを喜んでいます。

 
(注意) 三島由紀夫氏の文のなかに、現代では、適切でない表現がふくまれていますが、原文を尊重して、そのまま引用しました。

 
 (2009年 3月16日)


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