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they worship images made to look like mortals or... (Romans 1-23)

 



 去る 4月11日 (土曜日)、「TMの会」 の会員 6名といっしょに、国立博物館 (上野) で開催されている 「阿修羅展」 を観てきました。4月 7日に、皇后陛下も ご覧なされたとのこと。東京で阿修羅像 (興福寺) が展示されるのは、57年ぶりです──1952年の展示以来です。展示物を観た感想は、「スゲー」 の一言に尽きます。

 「阿修羅展」 は そうとうに人気があって、当日、入場待ち (40分ほど) があって、入り口で長蛇の列ができました (14:00 過ぎに、われわれも列のなかに並んで入場を待ちました)。国宝物の展示ですが、人気があるといっても、仏像の展示なのだから、私と同年配 (50歳代なかば) か それ以上の年配の人たちが多いだろうと想像していたのですが、若い人たちが多かったのは意外でした。

 亀井勝一郎氏は、以下の警句を遺しています (「思想の花びら」)

     美術あるいは美術品という言葉は、明治以後にできた言葉で
    ある。これが私たちの美意識をどれほど誤まらせたか。古寺とか
    美術館の内部で、保存の面からだけ鑑賞して、それらが実用品
    として、それぞれの建築の内部で生きていたときのすがたを
    忘れて平気でいられるという事態を招いたのである。

     私はいつもくりかえしてきたことだ。仏像は礼拝の対象で
    あって、美術品ではない。掛軸は床間においてはじめて生きる
    ものであり、茶碗は茶室で茶を飲むときにその美しさを発揮
    する。美術とか美術品という言葉を全部忘れてしまうことが
    大切だ。そんなものはかってありえなかったということを念頭
    において古寺や美術館を訪れるのが初心というものであろう。

 さて、阿修羅像は仏像 (仏法の守護神) なので礼拝の対象のはずですが、私は 「美術品」 として観ているようです。阿修羅像は いくつも現存するのですが、阿修羅像と云えば、興福寺のそれが代名詞になっているほどです。今回展示されている仏像は、阿修羅像をふくめた八部衆像のほかに、十大弟子像 (奈良時代) や薬王菩薩・薬上菩薩 (鎌倉時代) や運慶 (と その流派 [ 慶派 ]) 作の仏像ほかがありました。それらのなかで──あるいは、八部衆のなかでも──、阿修羅像は特異な感を与えます。興福寺の阿修羅像の特徴点としては、中性的肢体・「悲哀」 感が云われていますが、現存する実物を観て確かに そう感じます。ただし、その「悲哀」 感は、1300年近い時の流れのなかで着色が落ちて、色の剥脱した生地が 面持ちと相まって醸している興趣であって、像が造られた当時の態ではないでしょうね。たとえば、阿修羅像の写真を材料にして、Photoshop を使って写真に着色してみれば──像の肌を朱色に塗って、像が纏っている装飾品を金色に着色してみれば──、われわれが今感じる気韻とはちがった趣を像は与えるでしょう。そして、原色を復元した像は、その面持ちと相まって、(現存の像から感じる 「悲哀」 とは逆に) 気の強そうな・好戦的な若い神として映るでしょうし、異形の迦楼羅 (かるら) 像・鳩槃荼 (くばんだ) 像と並べたら程合う。

 現代に生きている私にとって、1300年間存続してきた像は、現存する形状が実物であって、当時の社会状態 (文脈) と同じ状態で私が像を礼拝できる訳ではないというのが 「鑑賞」 の難しさでしょうね。たとえば、私は禅 (道元禅) を信奉していますが、私が禅を通して知っている仏法と、奈良時代の仏教 (法相宗) では ちがう点が多いようですし、たとえ、同じ宗派であっても、奈良時代の文脈 (鎮護国家) と現代の文脈では、仏教が社会と係わる様は そうとうに相違しています。興福寺は、右大臣 藤原不比等が建立した氏寺ですが、法相宗の大本山のひとつです (薬師寺も法相寺の大本山です)。

 「阿修羅展」 のなかで、私は阿修羅像に惹かれたほかに、薬王菩薩像・薬上菩薩像にも惹かれました──これらの像は、鎌倉時代の作だそうで、巨大な像でした (高さ 4 メートル弱)。もう一つ惹かれた像は、小さな [ 高さ 50センチ くらいかしら ] 阿弥陀三尊像 (法隆寺蔵、橘三千代の念持仏 [ 銅造 ])。法隆寺蔵の阿弥陀三尊像が出展された理由は、たぶん、橘三千代の念持仏だからでしょうね。「阿修羅展」 の主役たる阿修羅像は、橘三千代の 1周忌供養の菩提を弔うために光明皇后が造像なされたので、橘三千代にちなんで阿弥陀三尊像が法隆寺の厚意で出展されたのでしょう。光明皇后が ご覧なされた仏像を 1300年後に私も観ているというのは歴史の妙ですね。阿修羅像を観ていたら、亀井勝一郎氏の以下の ことば が浮かんできました。

     仏さま曰く、「仏像鑑賞と称して多くの人が来るが、実は
    俺の方でその人たちをさんざん鑑賞しているのだということ
    を忘れなさんな」──観仏とは仏に見られることであって
    見ることではないということ。

 奈良時代の仏像と鎌倉時代の仏像では、たぶん、社会の有様のなかで仏像の性質がちがってきたのではないかと想像します。鎌倉時代の仏像のほうが礼拝の対象という性質が強かったのではないかしら。運慶 (鎌倉時代初期の仏師) の作風は写実的で力強い様式だと云われていますが、鎌倉時代の仏像に比べたら、奈良時代の仏像のほうが いっそう写実的な感が強いようです──たとえば、十大弟子像は、本来なら インド 人であるはずが、顔は日本人として造られています。奈良時代の仏像は、人物に似せた 「写し」 の感が強いけれど、鎌倉時代の仏像は、いったん deformer して 「らしさ」 を構成する (言い換えれば、対象の特徴的性質を強調する) 様式が感じられます。「阿修羅展」 という名で展示会が開催されているので、阿修羅像が注目を浴びるのは それはそれでいいのですが、ほかの仏像も すばらしい像が多かった。

 「阿修羅展」 を観たあとで、「TMの会」 の会員たちと上野公園近くの居酒屋で呑みました。帰宅の山手線では、私は ガハク (中川さん、「TMの会」 会員、美術大学卒) と上野駅から高田馬場駅まで同道で、「阿修羅展」 の互いの感想を述べて、ガハク 曰く、「(きょう観た仏像が) 夢のなかにでてきそうだなあ」。私も、当夜、興奮醒めやらない状態で眠られず、阿修羅像・薬王菩薩像・薬上菩薩像が私の頭のなかで はっきりと私を見下ろしていました。造像された当時に華やかな色彩を施された阿修羅像が、1300年の長い時のながれのなかで、色が剥脱したのは ただの自然現象にすぎないのですが、脱色がもたらした 「悲哀」 の面持ちは、修羅道に落ちて争いを続ける 「われわれ人間」 を見続けた悲しみなのかしらと思わせるくらいに歴史が造った表情と云ってもいいのかもしれない。

 夢想家の私は、私自身を 「帝釈天と戦って負け続ける」 阿修羅に見立てて、「非天」 を流浪する私の境遇を嘆き、阿修羅像に対する共感を いっそう強くした次第です。そのいっぽうで、私を見下ろす薬王菩薩像・薬上菩薩像に圧倒されて、私の夢想など こっぱみじんにふっとんでしまい、呆然と ただただ立ち竦 (すく) んでいる私を見つめる もう一人の私を感じていました。

 → 興福寺の ホームページ

 
 (2009年 4月16日)


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