前回 (2009年 4月23日付けの 「反文芸的断章」) 三島由紀夫氏の 「団蔵・芸道」 なかから引用して、引用文を以下の文で終えました。
彼はただそれを表現しうるだけである。
上掲の文で 前回 引用を止めた理由は、「団蔵の生きかた」 が私の人生に だぶって映ったという テーマ を扱いたかったからです。
さて、三島氏は、上掲の文の直後に、以下の文を綴っています。
ここに、俳優が武士社会から河原乞食と呼ばれた本質的な理由
があるのであらう。今は野球選手や芸能人が大臣と同等の社会的
名士になつてゐるが、昔は、現実の権力と仮構の権力との間には、
厳重な階級的差別があつた。しかし仮構の権力 (一例が歌舞伎
社会) も、それなりに卑しさの絶大の矜持を持ち、フィクション
の世界観を以て、心ひそかに現実社会の世界観と対決してゐた。
現代社会に、このやうな二種の権力の緊張したひそかな対決が
見られないのは、一つは、民主社会の言論の自由の結果であり、
一つは、現実の権力自体が、すべてを同一の質と化する マス・
コミュニケーション の発達によつて、仮構化しつつあるからで
ある。
第一級の小説家は、さすがに、観察力が──そして、表現力が──鋭いですね。三島氏が生きていた時代に比べて、現代は、インターネット の普及によって、さらに、「匿名の」 大集団が生まれて 一つの力を持ってきて、三島氏の指摘した点 (現実の権力の仮構化、仮構の権力の現実化) が、ますます、進んでいるようです。三島氏は、「団蔵・芸道」 のなかで、「団蔵」 の生きかたを例にして 「芸道」 の性質を述べているのですが、三島氏の職業である小説家が作る作品 (小説) を──そして、小説に限らず、文芸一般を──「芸道」 のなかに包摂されると考えています。 [ ただ、かれの文を そのまま引用すれば、「小説の場合、芸道から脱却しようとして、『私小説』 のやうな例もあるが、ここではそれに言及する遑 (いとま) はない」 としていますが、かれは、『私小説』 を文学として認めるのを嫌っていたようです。]
三島氏は、仮構の権力が現実の権力化してきたにもかかわらず、絶対に、「現実」 には同化できないことを以下のように述べています。
よく、舞台で死ねば役者は本望、だなどと言はれるが、芸道に
は、行為によつて死を決する、などといふ原理は、本来含まれて
ゐないので、舞台で死ぬ役者は偶然病人が舞台の上で死を迎へた
だけのことであり、小説家が癌にかかつても、偶然の出来事に
すぎぬ。芸道には、本来 「決死的」 などといふことはありえない。
小説家がある小説を書くのに 「決死的」 だなどといつても、それ
は、商店の大売出しの 「決死的出血 サービス」 といふのと同じ
惹 (ひ) き文句である。
ギリギリ のところで命を賭けないといふ芸道の原理は、芸道
が、とにかく、石にかじりついても生きてゐなければ成就されない
からである。「葉隠」 が、
「芸能に上手といはるる人は、馬鹿風の者なり。これは、唯一偏に
貪着 (どんぢやく) する故なり、愚痴ゆゑ、余念なくて上手に
成るなり。何の益 (やく) にも立たぬものなり」
と言つてゐるのは、みごとにここを突いてゐる。「愚痴」 とは
巧く言つたもので、愚痴が芸道の根本理念であり、現実の フィク
ション 化の根本動機である。
さて、今いふ芸術が、芸道に属することはいふまでもないが、
私は現代においては、あらゆる スポーツ、いや、武道さへも、
芸道に属するのではないかと考へてゐる。
さてさてさて、芸道の 「仮構」 の美しさに惹かれながらも、芸道で生きるだけの 「唯一偏に貪着する」 覚悟を持てなかったが故に他の道を選んで、したがって 「仮構」 の美を 「表現」 する技術を持っていなければ、「愚痴」 は泣き言に終わるでしょうね──そして、その点こそ 私の人生が 「惨めな」 状態になった理由かもしれない。
(2009年 5月 1日)