三島由紀夫氏 は、かれの著作 「若き サムライ のために」 のなかで、文学の 「すごさ・怖さ」 を綴っています (「文弱の徒について」 の章)。さすがに、第一級の小説家は、事態を的確に観て、正確に記述しています。かれの文を以下に引用します。長い引用になりますが、見事な文なので読んでみてください。
なぜならば、文学に生きる目的を見つけようとする人は、この
現実生活の中で何かしら不満を持っている人である。そして現実
生活の不満を現実生活で解決せずに、もっと別世界を求めて、そこ
で解決の見込がつくのではないかと思って、生きる目的やあるいは
モラル を文学の中に探そうとするのである。しかも、それにうまく
こたえてくれる文学は二流品にきまっていて、青年はこの二流品に
おかされているうちはまだ罪も軽いし害も少ない。作家の名は指さ
されないけれども、そういう文学はどんな時代にも用意されている。
それは一人の人間をより高い精神に向かって鼓舞するようにつく
られている文学で、それは平均的な人間の モラル を、ほんの少し
引き上げて、人生というものをほんのちょっと明るく見せかけ、人に
欺瞞を与えるようにうまくこしらえられてある。なるほど、小説家の
先生はうまいことを言うものだ。失恋した青年には希望を与え、失敗
した青年にはある程度再出発の気力を与えてくれる。また、ある女
に惚れ抜いて絶望すれば 「女というものはこんなものさ」 とという、
ちょっとした超越的な見地を与えてくれる。貧乏に苦しんでいれば、
この世には金だけではない、精神の価値があるというふうに教えて
くれる。また、自分が肉体的精神的弱者であると考えていれば、
弱者ほど人間の真実に近づくものだと慰めてくれる。それはすべて
柔かい、またある場合にはきびしい母親や教師の手であって、そう
いう文学に親しんで人生に目ざめた人たちは多い。そしてそういう
文学は必ず ユーモア や低俗な魅力をも兼ね備えていて、学校で
教えてくれないこと、父親や先輩が言ってくれないことが、興味を
引くようにうまく織り込まれている。(略)
しかしほんとうの文学とはこういうものではない。私が文弱の徒
に最も警戒を与えたいと思うのは、ほんとうの文学の与える危険
である。ほんとうの文学は、人間というものがいかにおそろしい
宿命に満ちたものであるかを、何ら歯に衣 (きぬ) 着せずに ズバ
ズバ と見せてくれる。しかしそれを遊園地のお化け屋敷の見せもの
のように、人をおどかすおそろしい トリック で教えるのではなし
に、世にも美しい文章や、心をとろかすような魅惑に満ちた描写を
通して、この人生には何もなく人間性の底には救いがたい悪が
ひそんでいることを教えてくれるのである。そして文学はよいもの
であればあるほど人間は救われないということを丹念にしつこく
教えてくれるのである。そして、もしその中に人生の目標を求め
ようとすれば、もう一つ先には宗教があるに違いないのに、その
宗教の領域まで橋渡しをしてくれないで、一番おそろしい崖っぷち
へ連れていってくれて、そこで置きざりにしてくれるのが 「よい
文学」 である。
したがって、さっき言ったような二流の人生小説に目ざめる人
たちはまだしものこと、一流のおそろしい文学に触れて、そこで
断崖絶壁へ連れてゆかれた人たちは、自分が同じような才能の
力でそういう文学をつくれればまだしものこと、そんな力もなく
努力もせずに、自分一人の力でその崖っぷちへ来たような錯覚
に陥るのである。
その錯覚からはさまざまなものが生れる。自分は無力で、文弱
の徒で、何の力もなく、この人生を変えることもできず、変革する
こともできないけれども、自分の立っている位置はあらゆる人間を
馬鹿にすることのできる位置である。あらゆる人間を笑うことの
できる位置である。それは文学のおかげで得たものだから、自分
はたとえけんかをすればたちまちなぐられ、人からは軽蔑され、何
ひとつ正義感は持たず、電車の中で タバコ を吸っている人がいて
も注意することもできず、暗い道ばたで女の子をおどかしている
男を見てもそれと戦うこともできず、何ひとつ能力がないにもかか
わらず、自分は人間の世界に対して、ある 「笑う権利」 を持って
いるのだという不思議な自信のとりこになってしまう。そしてあら
ゆるものに シニカル な目を向け、あらゆる努力を笑い、何事か
一所懸命にやっている人間のこっけいな欠点をすぐ探し出し、真心
や情熱を嘲笑し、人間を乗り越えるある美しいもの、人間精神の
結晶であるようなある激しい純粋な行為に対する軽蔑の権利を
我れ知らず身につけてしまうのである。
こういう態度はおのずから顔にもあらわれ、服装にもあらわれる。
私はそういう考えを持っている青年を群衆の中からでも一目で見分
けることができる。そういう青年の目は一見澄み切っているけれど
も、奥底には光がなく、青年にとって一番大切なものである純粋な
愚かしさ、動物的な力を欠いている。彼らは隠花植物の一種に
なったのである。
以上に引用した三島由紀夫氏の文は、小林秀雄氏流に言えば 「文学から学んだことを 『装う』」 悪弊のことであって、その悪弊を的確に暴いていますね。私も、青年の頃 (大学生の頃から 20歳代の後半まで)、この悪弊に陥ったことを正直に告白しておきます。私が この罠から這い出ることのできた契機は、30歳過ぎになって、仕事が忙しくなって──日本に いまだ存在しなかった RDB を日本に導入・普及する仕事に携わって──、仕事に集中しなければならなくなったからです。そして、それ以後、モデル の研究を進めるうちに、天才的な研究家たちの著作を丁寧に読まなければならなかったので、かれらに ひたすら 真っ直ぐに立ち向かわなければならなかった。興味深いことに、哲学・数学の天才たちは、三島由紀夫氏のいう 「崖っぷち」 に 私を連れていって置き去りにしてくれました [ たとえば、ウィトゲンシュタイン 氏は、まさに そのように私を置き去りにしてくれました ]。私のような凡人が、こういう 「崖っぷち」 に置き去りにされると、転落するのではないかという恐怖感に襲われて立っていることもできず、崖下に落ちないように身を縮めて、這いつくばってでも元の安全な場所にもどろうと懸命に後退りします。「不幸にも」 私は凡人だったので、「崖っぷち」 に立ち続けることはできなかったのですが、「幸いにも」 その 「崖っぷち」 を垣間見ることができました。「崖っぷち」 に立ち続けることができないことで、私は一流でないことが明らかになったのですが、いっぽうで、「崖っぷち」 を垣間見ることができて、私は、「装う」 人たち (文弱の徒) を見分けるようになったと思います。そして、私のような凡人は、愚直であっても恥じることなく、物事に真っ直ぐに立ち向かえばいいと思うようになりました。私は、2 チャンネル で 「DQN (ドキュン)」 と批評されたそうです (笑)。しかし、私にしてみれば、そういう批評文を匿名で したり顔に綴っている smart-alec こそ、「邪気ない (あどけない)」 と思っています。
三島由紀夫氏は、以下の文で エッセー を締めくくっています。
できれば文学熱に浮かされている青年たちが、もっと早く目が
さめてほしいのである。そしてその中から何人か、人の毒に
染ったのではなく、自分のからだの中に生れつきおそろしい毒
を持った人間が文学者として幾つかの作品を書いてゆけばよい
のである。
私は、少なくとも、そういう人間ではなかったことがわかったので、ほかの道を歩んだのですが、困ったことに、他人から被った 「毒」 であっても、後遺症を残すようです。
(2009年 6月 8日)