三島由紀夫氏 は、かれの著作 「若き サムライ のために」 のなかで、「人生と芸術の相互作用」 を綴っています (「芸術について」 の章)。
人生というものは、死に身をすり寄せないと、そのほんとうの力
も人間の生の粘り強さも、示すことができないという仕組になって
いる。ちょうど、ダイヤモンド のかたさをためすには、合成された
硬い ルビー か サファイヤ とすり合さなければ、ダイヤモンド で
あることが証明されないように、生のかたさをためすには、死の
かたさにぶつからなければ証明されないのかもしれない。死に
よって、たちまち傷ついて割れてしまうような生はただの ガラス
にすぎないのかもしれない。
ところがわれわれは、実にあいまいもこたる生の時代に住んで
いる。われわれは、自動車事故以外にはめったに死ぬことがなく、
薬は完備し、かつての病弱な青年を脅 (おびや) かした肺結核
と、健康な青年を脅かした兵役とからは、完全に免れている。
そして死の危険のないところで、いかにして自分の生を証明する
かという行為は、一方では狂おしいような セックス の探求となり、
一方ではただ暴力のための政治行為になってゆくのもやむを
得ない。そしてそこでは、芸術さえほとんど意味を持たないほどの
焦燥感が生まれてくる。なぜなら、芸術とはやはり炉辺で楽しむ
ものだからである。美しい絵も、静かな音楽も、よく書かれた小説
も炉辺の孤独なひとときがなくては、決してその味を知ることが
できない。娯楽としての文学は、人生の酸 (す) いも甘いもかみ
分けた老政治家が、ファイアプレース のそばで パイプ をふかし
ながら耽読する、ジェームス・ボンド の小説のようなものであった。
イギリス ではすべて人生が優先しているから、芸術は ディッケンズ
の昔から、そのようなものとして鑑賞されることが多かった。(略)
それに比べると、もっと激しい人生そのものを小説に凝縮しよう
とする傾向、青年の思想的煩悶を、そのままな形で芸術に持ち
込もうとする傾向は、もっと成熟しない社会から起る。
ロシア の ドストエーフスキー の 「カラマーゾフ の兄弟」 のよう
な、おそろしい人間精神の深淵を切り開いて見せた小説は、とても
引退した老政治家が炉辺で読むには適しない。それは青年を悩ま
せ、苦しめ、あるいは鼓舞するような文学なのである。そしてかつて
ハイネ がいみじくも言ったように、青年を決して鼓舞しない ゲーテ
のような文学は、いかに古典的に完成していても、不毛にすぎない
という見方が生まれてくる。ここに芸術に対する、相反する二つの
要求が、人生の側から降りかかってくるのである。つまり、退屈した
平和な時代は、ある意味では爛熟した芸術を生むけれども、その
爛熟した芸術は、その生の不安に耐えられない魂を、十分に魅惑
することができないという矛盾が起こってくるのである。
ここに引用した文は、「芸術について」 のなかで半分を占める量です。しかも、もう半分は、三島氏が会談した旧軍人の体験談を要約した文なので、ここに引用した文は、「芸術」 に対する なんらかの考えかたを──かれの 「芸術観」 そのものではないけれど──かれが記したと見ていいでしょう──というのは、かれは、「若き サムライ のために」 のなかに収録した文は、「『時務の文』 であって、文学とは関係がない」 と 「あとがき」 で記しています。そして、「あとがき」 で 「しかし文学者をして敢て 『時務の文』 を書かしめるのは、今のやうなそして又幕末のやうな、変動し流動する時代の特質なのである」 とも綴っています。
私は、上に引用した文を読んで、三島氏の 「芸術観」 そのものを述べているとは毛頭思っていない。というのは、かれの他の エッセー と比べてみれば──たとえば、「小説家の休暇」 (昭和 30年11月) や 「裸体と衣裳」 (昭和 34年 9月) で述べられている文学評論と比べてみれば──ここに引用した文で述べられている意見は 「月並みな (stereotyped)」 とでも言えるほど 「そっけない」 意見です。上に引用した文は、昭和 44年に綴られた文です──かれが自衛隊市ヶ谷駐屯所で自決する一年前に綴られた文です。「小説家の休暇」 は、「金閣寺」 (昭和 31年) が執筆された頃の エッセー なので、かれが 「『美の世界』 を構成する」 絶頂にいた頃の エッセー です。したがって、「小説家の休暇」 のなかに認められている文学観・芸術観のほうが、「文学者としての」 三島氏の考えかたを表しているでしょう。
では、上に引用した 「芸術について」 は、どういう構成のなかに置かれているかと言えば、(「若き サムライ のために」 のなかで、) 次に続く 「政治について」 の前振りになっているように私は思います。すなわち、かれは、「若き サムライ のために」 を綴った頃には、政治のほうに意を向けていたと判断していいでしょう。というのは、かれは、昭和 43年に 「楯の会」 を組織して、いっぽうで、当時、政治と文学との ポリフォニー とも言える 「豊饒の海」 (四部作) を執筆中でした。そして、「豊饒の海」 の最終文を脱稿した日に、かれは自決しました。
かれは、「三島由紀夫文学論集」 (虫明亜呂無 編、講談社、1970年) の 「序文」 のなかで以下の文を綴っています。
私が二元論者であること、文学と行動とどちらをも等分に重視
すること、私が劇作家であること、私の小説は劇的構造に偏し
すぎること、私の政治的思考が極端な対立状況に傾きがちな
こと、・・・・・・全く、「物が二つになるが悪しきなり」 といふ精神
風土で、この態度は一体何たることであらうか。私の「絶対矛盾
的自己同一」 はそもそもどこに存在するのか。
私が外界について論ずるときに見出す問題性は、ありていに
言って、すべてこの自己の問題性から生じてゐた。それがけだし
私の評論を書く根本動機であった。(略)
この 「二元性」 は、かれにおいて、つねに意識されていた性質でした。この 「二元性」 は、かれの人生のそれぞれの時期において 「濃淡」 を示してきましたが、一貫して かれの分析対象になっていたのは、「精神の証明」 でした。
当初、かれが文学者として、「精神を表現する」 ことを試みていたのは当然でしょうね。かれは、かつて──「裸体と衣裳」 のなかで──、文学者として、「疑ひやうのない技術人でありつつ、もろもろの社会的要請を免れてゐたい」 と綴っています。しかし、「若き サムライ のために」 の 「あとがき」 では、それを否定するかのように、以下の文を綴っています。
文字 (もんじ) によつても言説によつても、もちろん精神は
表現されうる。表現されうるけれども、最終的には証明されない。
従つて、精神といふものは、文字の表現だけでは足りない。
これが私自身の、当然導かれた結論であるが、(略)
かれが自衛隊市ヶ谷駐屯所の バルコニー に立って演説している映像を私は観て──YouTube で観ることができるので、私が次に記す文に興味を感じたら、YouTube で映像を観てみてください──、私に強い印象を与えた場面は、バルコニー の下に集まった [ 正確には、「集められた」 ] 隊員たちに向かって 「ひとが命をかけて語っているのだ、聞け」 と絶叫している三島氏を 軽蔑した目で見ていた隊員たちの映像でした。私は、「これが 『実生活なのだ』」 ということを はっきりと意識しました。
(2009年 6月16日)