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...yet no one accepts his message. (John 3-32) |
三島由紀夫氏 は、かれの著作 「若き サムライ のために」 のなかで、「人生と芸術の相互作用」 を綴っています (「芸術について」 の章)。
人生というものは、死に身をすり寄せないと、そのほんとうの力
ところがわれわれは、実にあいまいもこたる生の時代に住んで
ロシア の ドストエーフスキー の 「カラマーゾフ の兄弟」 のよう ここに引用した文は、「芸術について」 のなかで半分を占める量です。しかも、もう半分は、三島氏が会談した旧軍人の体験談を要約した文なので、ここに引用した文は、「芸術」 に対する なんらかの考えかたを──かれの 「芸術観」 そのものではないけれど──かれが記したと見ていいでしょう──というのは、かれは、「若き サムライ のために」 のなかに収録した文は、「『時務の文』 であって、文学とは関係がない」 と 「あとがき」 で記しています。そして、「あとがき」 で 「しかし文学者をして敢て 『時務の文』 を書かしめるのは、今のやうなそして又幕末のやうな、変動し流動する時代の特質なのである」 とも綴っています。 私は、上に引用した文を読んで、三島氏の 「芸術観」 そのものを述べているとは毛頭思っていない。というのは、かれの他の エッセー と比べてみれば──たとえば、「小説家の休暇」 (昭和 30年11月) や 「裸体と衣裳」 (昭和 34年 9月) で述べられている文学評論と比べてみれば──ここに引用した文で述べられている意見は 「月並みな (stereotyped)」 とでも言えるほど 「そっけない」 意見です。上に引用した文は、昭和 44年に綴られた文です──かれが自衛隊市ヶ谷駐屯所で自決する一年前に綴られた文です。「小説家の休暇」 は、「金閣寺」 (昭和 31年) が執筆された頃の エッセー なので、かれが 「『美の世界』 を構成する」 絶頂にいた頃の エッセー です。したがって、「小説家の休暇」 のなかに認められている文学観・芸術観のほうが、「文学者としての」 三島氏の考えかたを表しているでしょう。 では、上に引用した 「芸術について」 は、どういう構成のなかに置かれているかと言えば、(「若き サムライ のために」 のなかで、) 次に続く 「政治について」 の前振りになっているように私は思います。すなわち、かれは、「若き サムライ のために」 を綴った頃には、政治のほうに意を向けていたと判断していいでしょう。というのは、かれは、昭和 43年に 「楯の会」 を組織して、いっぽうで、当時、政治と文学との ポリフォニー とも言える 「豊饒の海」 (四部作) を執筆中でした。そして、「豊饒の海」 の最終文を脱稿した日に、かれは自決しました。 かれは、「三島由紀夫文学論集」 (虫明亜呂無 編、講談社、1970年) の 「序文」 のなかで以下の文を綴っています。
私が二元論者であること、文学と行動とどちらをも等分に重視
この 「二元性」 は、かれにおいて、つねに意識されていた性質でした。この 「二元性」 は、かれの人生のそれぞれの時期において 「濃淡」 を示してきましたが、一貫して かれの分析対象になっていたのは、「精神の証明」 でした。
文字 (もんじ) によつても言説によつても、もちろん精神は かれが自衛隊市ヶ谷駐屯所の バルコニー に立って演説している映像を私は観て──YouTube で観ることができるので、私が次に記す文に興味を感じたら、YouTube で映像を観てみてください──、私に強い印象を与えた場面は、バルコニー の下に集まった [ 正確には、「集められた」 ] 隊員たちに向かって 「ひとが命をかけて語っているのだ、聞け」 と絶叫している三島氏を 軽蔑した目で見ていた隊員たちの映像でした。私は、「これが 『実生活なのだ』」 ということを はっきりと意識しました。 |
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