三島由紀夫氏 は、かれの著作 「若き サムライ のために」 のなかで、「政治について」 以下の文を綴っています。
ナチス革命が ニヒリズム 革命と呼ばれたように、人々は本来
芸術に求めるべきものを、芸術では満足せず実際行為の世界に
移し、生の不安を社会不安に投影し、死との接触により生の確か
めを無理やりつくり出し、(略) ところが、このような人為的な政治
行為は、いまや 一 ナチス・ドイツ にとどまらず、世界的な風潮
になったのである。それは、私が前からたびたび言うように、
芸術の政治化であり、政治の芸術化である。
(略) 芸術はどこまでいっても無責任な体系であるのに、政治
行為はまず責任から出発しなければならない。そして政治行為
は、あくまで結果責任によって評価されるから、たとえ動機が
私利私欲であっても、結果がすばらしければ政治家として許さ
れる。(略)
現在の政治的状況は、芸術の無責任さを政治へ導入し、人生
すべてが フィクション に化し、社会すべてが劇場に化し、民衆
すべてが テレビ の観客に化し、その上で行われることが最終
的には芸術の政治化であって、真の ファクト の厳粛さ、責任の
厳粛さに到達しないというところにあると言えよう。
東大安田城攻防戦は、大ぜいの観客を集め、人々は テレビ
ドラマ に飽きた目を ブラウン 管に向けて、時の移るのを忘れ
た。ある イギリス 人のことばによれば、それは巨大な シアター
であった。(略) そしてその一幕は終ってしまい、人々はまた
その芝居を忘れて、日常の生活へ帰っていった。
さすがに、第一級の小説家の眼は鋭いですね。ただ、小説家である三島氏が文中で 「ファクト」 という語を使ったのは、「フィクション」 に対応するためであったのでしょうが、できれば、「事実」 という語を使ってほしかったと私は思っています──しかも、括弧 (「 」) 付きで使ってほしかった。というのは、「真の ファクト の厳粛さ、責任の厳粛さに到達しない」 という文を読んだときに、「ファクト」 と 「責任」 との対応関係が曖昧になるので。「責任」 と対応するには、「事実」 のほうが (「ファクト」 に比べて) いいでしょう。
さて、三島氏が 「政治について」 のなかで述べたかった意見は、上に引用した 「分析」 ではなくて、以下の文です。
しばらくして、二月十一日の建国記念日に、一人の青年が
テレビ の前でもなく、観客の前でもなく、暗い工事場の陰で
焼身自殺をした。そこには、実に厳粛な ファクト があり、
責任があった。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身
自殺のような政治行為であって、またここに至らない政治
行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を
誇っていることができるのである。私は、この焼身自殺をした
江藤小三郎青年の 「本気」 というものに、夢あるいは芸術と
しての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。
亀井勝一郎氏も 「芸術としての政治」 に対して──かれ自身が 「転向」 という苦い経験をしていることもあってか──以下の痛烈な アフォリズム を遺しています。
ある大学教授の政治的方針。──共産党には絶対に
入らないが、その党員と同じような口調でものを言い、
ものを書く。共産党が失敗したときはさっそくそれを批評
して、自分の 「自主性」 を誇示する。情勢がわるくなった
ら、書斎か学校の研究室にとじこもり、沈黙を守ることで
抵抗の ポーズ を示す。いずれにしても時代に傷つくこと
の絶対にない生き方をつづけて、最後は 「マンション」
を買う。
この批評文は、どうも、だれか具体的なひとを念頭に置いて綴られた文のようですね。
芸術が責任をとることなど、三島氏が謂うように、毛頭ないでしょう──作品のなかで殺人を犯しても フィクション でしかないから。そのために、「芸術愛好家」 として芸術に長いあいだ親しんでくると、ややもすれば、フィクション に浸りきって フニャフニャ な性質になってしまう危うさがあるようです。本物の芸術家であれば、作品が批評に晒されるので、作品が フィクション であっても、外的に なんらかの作用・反作用を体認することになるのですが、「芸術愛好家」 は、どこまでいっても、無責任な状態のなかに立っているのは事実でしょうね。この点が 「芸術愛好家」 たる私の遣る瀬なさであり、以前綴ったように、芸術家に対する私の嫉妬です。いっぽうで、私は 「芸術化した政治」 を軽蔑していながらも、「政治」 に対して皆目興味がないという無責任さに漬っています。「夢想の粕漬け」 という状態が 「芸術愛好家」 である私の情けない実態でしょうね。
(2009年 6月23日)