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...by his blood he should become the means... (Romans 3-25)

 



 三島由紀夫氏 は、かれの著作 「若き サムライ のために」 のなかで、「信義」 について以下の文を綴っています。

     このごろの青年の時間の ルーズ なことには驚くのほかはない。
    また、約束を破ることの煩繁なことにもあきれるのほかはない。
    大体時間や約束というものは、それ自体ではたいした意味のない
    ものである。たとえば、三時に会う約束が三時半になっても、それ
    で日本がひっくり返るわけではない。また、金曜日の五時に会う
    約束を忘れてしまっても、それで日本の株式相場が一どきに下る
    わけでもない。というのは、学生時代には自分が社会の歯車の
    一ケになっているという意識がないから、かなり自分では重大だ
    と思っている約束でも、それが社会を動かすような モティーフ
    にはならないからである。

     約束や時間というものは、それ自体が重要なのではない。われ
    われがそれを守るのは、守らなければ世の中がひっくり返るから
    守るのではない。

     もっとも軍人の世界は別であって、(略)
     しかし、軍隊ほど極端な例でなくても、実際社会も時間によって
    動いている。約束に三十分おくれたから何千万円の契約を ミスって
    しまったということも、社会での場合幾らもあるし、また、ちょっと
    した時間の違いで、研究発表を相手方にとられてしまい、自分が
    長年にわたって完成した研究が、向うに先手を打たれてしまうこと
    もあるのである。

     また、一つのものを何人かの人間がとろうという競争があるところ
    では、いつも時間の勝負になり、その時間の結果は、契約という、
    約束の中でもっともこうるさい、「紙の上に書かれた約束」 に到達
    するようにできているのである。大体西洋では契約社会ということ
    が言われて、紙の上の契約がすべてを規制している。

     日本では契約がこうるさいのは、借家人の契約や、アパート の
    賃貸契約だけであるが、(略) アメリカ では何 ページ にも
    わたって アリ のはうような細かい活字を連ねた煩瑣な契約書が、
    起りうるあらゆる危険、あらゆる裏切り、あらゆる背信行為を
    予定して書きとめられている。そもそも契約書がいらないような
    社会は天国なのである。契約書は人を疑い、人間を悪人と規定
    するところから生まれてくる。

     そして相手の人間に考えられるところのあらゆる悪の可能性を
    初めから約束によって封じて、しかしその約束の範囲内ならば、
    どんな悪いことも許されるというのは、契約や法律の本旨である。
    ところが別の考え方もあるので、ほんとうの近代的な契約社会は、
    何も紙をとりかわさなくても、お互いの応諾の意思が発表された
    時期に契約が成立するのだという学説もあるくらいである。(略)
    そんなりっぱな人間ばかりでないところからむずかしい問題が
    生じるわけである。

     (略) 守るというのは、実は約束の精神ではないのである。
    私が言いたいのは信義の問題だ。本来時間はそれ自体無意味
    なものであり、約束もそれ自体はかないものであればこそ、そこ
    に人間の信義がかけられるのである。

     (略) その一文も得をするわけでもないものに命をかけると
    いうことは、ばからしいようであるが、約束の本質は、私は契約
    社会の近代精神の中ではなく、人間の信義の中にあるというの
    が根本的な考えである。一人一人の人生にとって、時間という
    ものは二度と繰り返せぬものである。

 さて、私 (佐藤正美) は、三島由紀夫氏の 「信義について」 の エッセー を 「反文芸的断章」 のなかで扱うのをよそうと思っていたのですが、「若き サムライ のために」 のなかで綴られている かれの エッセー を順番に扱うのであれば、外す訳にもいかないので取りあげた次第です。私が、かれの この エッセー を扱いたくなかった理由は、「私が 時間に ルーズ だから」 という疚 (やま) しさがあるからです。私とつきあっている人たちは、私の 「時間の ルーズ なこと」 には呆れ果てているでしょう、きっと。そして、「時間の ルーズ なこと」 が 「信義」 の喪失であると非難されれば、私は自分を恥じるのほかはない。じぶんが守ってもいないことを どうこう言えた義ではないので、三島由紀夫氏の意見を長々と引用した次第です。三島氏は、約束を かならず守ったそうです。

 三島氏は、かれの エッセー 「私の中の 『男らしさ』 の告白」 のなかで、以下の文を綴っています。

    その他、私は、いい加減な約束をしない、とか、約束は必ず
    守る、とか、決して食言しない、とかの、自分に課した モットー
    を持ってゐるが、こんなことは 「男らしさ」 とは何の関係もない。
    これらは近代契約法の基本原則で、私はただ近代社会の
    原理に忠実なだけである。本来の 「男らしさ」 は、いくら嘘を
    ついてもいいのである。

 ちなみに、かれの謂う 「男らしさ」 とは、「肉体と知性」 のふたつを具 (そな) えている状態です。

 さて、かれは近代社会のなかで約束を守ることは、契約法の基本原則であって、それ以上でもそれ以下でもないと謂っていますが、もし、この 「約束」 という行為を通時的に──長久な時間のなかで──観れば、永い時間を貫いて継承されてきた 「伝統 (あるいは、日本人の精神)」 を 「信義」 の脈絡に喩えることができるでしょう。なお、私は、「信義」 を文字通りに 「信と義を守り行動すること」 として 「解釈」 しています。そして、「日本人の精神」 を 「やまと の たましい (霊)」 と謂ってもいいかもしれない。ちなみに、「やまと魂」 は、第二次大戦で標語として悪用されたので、その語には現代では忌まわしさが こびりついてしまっていますが、私が ここで使う意味は、本居宣長が追究した純然たる意味で使っていて、平田篤胤以後の国学で使われた意味ではない。

 三島由紀夫氏は、自決する 4ヶ月前に、「果し得ていない約束」 という エッセー を新聞に発表しています。その エッセー のなかで、かれは、「日本」 のゆく末を──「やまと の霊」 を喪った日本のゆく末を──以下のように的確に見通していました。

    日本はなくなって、その代わりに無機的な、からっぽな、
    ニュートラル な、中間色の、富裕な、抜目がない
    ある経済的大国が極東の一角に残るのであろう。

 かれは、「生命尊重以上の価値の所在」 言い換えれば、一文の得にもならない・はかない価値 (すなわち、日本人の精神) が曖昧になってゆく様 (さま) を観て、それを死守することが 「果し得ていない約束」 だと感じていたようです。かれは、作家として立って、個人の精神を凝視し続けて、当時の高度経済成長のなかで俄 (にわか) に米国流の生活風俗が広まっていった社会のなかで、「個人」 的精神の持つ意味を問い、精神 (プシユケー) に拮抗するように肉体を鍛え、「『思想』 としての個人」 を当時の社会不安のなかで見事に造形 (内面化と肉体化) した作家だったと私は思います。こういう作家は、文学史では扱いにくい [ はみ出してしまう ] のではないかしら──たぶん、「金閣寺」 までが 「純粋小説」 の作家として評されて、「鏡子の家」 以後の作品群は文学史のなかで どう扱っていいのか戸惑う やっかいな作品群ではないかしら。しかしながら、かれが 「『思想』 としての個人」 を造形したのは 「鏡子の家」 以後の作品群であって、絶筆となった 「豊饒の海」 は、正 (まさ) しく かれの到達点ではないかしら。こういう小説が──言い換えれば、こういう精神が──かれ以前の作家たちには造形できなかった [ 類型がない ] というだけのことでしょうね。
 かれの作品に比べたら、現代作家の小説など チマヂマ していて読むに堪えない。

 
 (2009年 7月23日)


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