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But keep away from foolish and ignorant arguments,... (2 Timothy 2-23)

 



 三島由紀夫氏 は、かれの著作 「若き サムライ のために」 のなかで、「羞恥心」 について以下の文を綴っています。

     言論の自由の名のもとに、人々が自分の未熟な、ばからしい言論
    を大声で主張する世の中は、自分の言論に対するつつしみ深さと
    いうものが忘れられた世の中でもある。人々は、自分の意見──
    政治的意見ですらも何ら羞恥心を持たずに発言する。
     戦後の若い人たちが質問に応じて堂々と自分の意見を吐くのを、
    大人たちは新しい日本人の姿だと思って喜んでながめているが、
    それくらいの意見は、われわれの若い時代にだってあったのである。
    ただわれわれの若い時代には、言うにいわれぬ羞恥心があって、
    自分の若い未熟な言論を大人の前でさらすことが恥かしく、また
    ためらわれたからであった。そこには、自己顕示の感情と、また
    同時に自己嫌悪の感情とがまざり合い、高い誇りと同時に、自分
    を正確に評価しようとするやみ難い欲求とが戦っていた。
     いまの若い人たちの意見の発表のしかたを見ると、羞恥心のなさ
    が、反省のなさに通じている。

 さて、現代社会において、「羞恥心」 を語るのは ひどく難しい。たぶん、学校教育では、「じぶんの意見を はっきりと述べなさい」 という教育指針が重視されて、寧ろ、「羞恥心」 は 「多数の人たちといっしょに仕事する場合には邪魔である (あるいは、損をする)」 という風潮が強いのではないかしら。三島氏は、上に引用した文のあとで、「羞恥心は (略) 文化全体の問題であり、また精神の問題である」 と述べています。したがって、かれが青春時代を送った頃の日本と、欧米化が進んだ現代の日本では、「羞恥心」 に関する質感は違ってくるのは当然でしょうね。そして、精神の問題であるかぎりにおいて、それぞれの個人によって、「羞恥」 を感じる度合いは様々でしょう。したがって、日本人の行為に関して膨大な事例を あつめて、日本人が どうのような対象に対して 「羞恥」 を感じるかを特定できても、どのくらいの程度で 「羞恥」 を感じるかは計量化できないでしょうね。われわれが ふだんの生活のなかで 「羞恥」 について語ることのできる点は、実際に起こった個々の事態に対して、じぶんが 「羞恥」 を感じるかどうか 自問するくらいでしょう。私は、本 エッセー で、「羞恥心」 を文化の観点で述べるほどの学識もないし、そもそも、そういう広大な・概念的な テーマ を論じるつもりもないのであって、三島氏が謂う 「いまの若い人たちの意見の発表のしかたを見ると、羞恥心のなさが、反省のなさに通じている」 ということに関して、いくつかの実例を挙げて考えてみたいのです。三島氏は、上に引用した文に続いて、以下の例を記しています。

    私のところへ葉書が来て、
    「お前は文学者でありながら、一ページ の文章の中に二十幾つの
    かなづかいの間違いをしているのは、なんという無知、無教養で
    あるか、さっそく直しなさい」
     という葉書をもらったことがある。この女性は旧かなづかいという
    ものを知らないのみならず、自分の無知を少しも反省してみようと
    しないのであった。

 こういう類の [ 的外れな・不遜な ] 非難は、現代では、ウェブ 上で巨萬 (ごまん) と垂れ流しにされています。そういう類の非難を ウェッブ 上に 「無記名」 で綴っている輩は、たぶん暇つぶしに面白半分でやっている [ 真面 (まとも) にやっている訳ではない ] のでしょう──そう想像しなければ、私は かれらの意図を理解できない。というのは、かれらの非難文が拙い表現なので、思いつきで綴っているとしか謂いようがない。もし そうだとすれば、それらは、明らかに 「羞恥」 の欠如であって、「じぶんの意見を はっきりと述べなさい」 という態度とは次元のちがう態度でしょうね。

 かつて、私が講演をしたときに、私 (私の著作) を非難したひとに対して私が整然と反論したら、そのひとは怒って席を立って帰ってしまった。私は唖然としました。というのは、「ひとを非難するのは平気だけれど、じぶんが非難されるのは不愉快だ」 という態度には、知性の欠片 (かけら) もないでしょう──「自分を正確に評価しようとするやみ難い欲求」 など皆無でしょう。三島氏が糾弾している態度は、まさに、そういう態度でしょうね。

 
 (2009年 8月 1日)


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