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your young men will see visions, and your old men will have dreams. (Acts 2-17)

 



 三島由紀夫氏 は、かれの著作 「若き サムライ のために」 のなかで、「長幼の序」 について以下の文を綴っています。

    人生は、成熟ないし発展ということが何ら約束されていないところに
    おそろしさがある。われわれは、いかに教養を積み知識を積んでも、
    それによって人生に安定や安心が得られるとは限らない。長幼の序
    とは、私には、あまり年齢の差のない間で効果があることばのように
    思われる。

 なお、「長幼の序」 というのは 「年長者と年少者のあいだで、年長者が上位 (優位) で年少者が下位にあるという序列」 のこと。そして、かれは、敬老思想が農業社会の特質であることを述べたあとで、以下の文を続けています。

     ところが現代社会では、老人は何でも知っており、若者が何も知ら
    ないということはあり得ない。ひょっとすると、老人が一番知って
    いるのは、テレビ の新しい芸能界の知識かもしれないのである。私の
    妻の家の、もう亡くなった八十何歳の祖母は、一日中 テレビ を見て
    いたので、私は、新しい ジャズ・シンガー の名前は、いつもこの祖母
    に教わっていた。彼女は、十代歌手の私生活から、彼らの食物の嗜好、
    天ぷらが好き、あんみつがきらいということまで知っていた。

     われわれは今後ますます情報社会に生きるから、情報をただひたすら
    受身で待っている役目は老人にまかされるかもしれない。そして、情報
    社会の一面、技術社会としての進歩は、われわれにますます若者の領域
    を広げ、老人の技術的知識は日ましに古くなって、無用のものになって
    ゆくかもしれない。しかも情報の利用には、すでに新しい技術的知識を
    要するから、一日中 テレビ を見ている老人の情報は、情報としての
    価値すら失ってしまうかもしれない。こういう社会で長幼の序という
    ことを主張するのは実にむずかしいことである。

 かれが当時 (昭和44年、すなわち 1969年に) 予測したことが 今 起こっていますね。かれの洞察力に私は感服します。
 そして、かれは、次に、運動部や軍隊を例にして、以下の文を記しています。

    先輩をいまのうちに立てておかなければ、自分が先輩になったときに
    権威を振り回すことができなかったからである。しかし一方でその年齢
    の秩序そのものが、さっき言ったように、社会の変化で頼りにくくなって
    いるときには、長幼の序はおろか、われわれは、全学連が主張している
    ような各人の完全な自由のほかには何ものもない世界に住むことになる
    かもしれない。

 そして、かれは、以下の文で エッセー を締め括っています。

    私は確信を持って言えるが、どんな自由な世界がきても、たちまち人は
    それに飽きて、階段をこしらえ自分が先に登り、人をあとから登らせ、
    自分の目に映る景色が、下から登ってくる人の見る景色よりも、幾らか
    でも広いことを証明したくなるに違いない。要はその階段が広いか狭い
    か、横になって一列に登れるか、あるいは縦に一列でしか登れないかの
    問題である。長幼の序とはその狭い階段の モラル であるが、われわれ
    がその階段をいかに広くしても、階段をほしいという人々の欲求をなく
    すまでには至らぬであろう。長幼の序が重んじられなくなると、逆転し
    て、人々は 「若さ」 をもっとも尊敬しなければならなくなるにちがい
    ない。

 さすがに、第一流の小説家の視点は鋭いですね。「自分が先に登り、人をあとから登らせ、自分の目に映る景色が、下から登ってくる人の見る景色よりも、幾らかでも広いことを証明したくなる」 という気持ちは、(「競争」 という強い文脈のなかでないとしても、) たぶん、人間の特徴とでも云えるのかもしれない。哲学者・小説家の言が、ときに、「高慢さ」 を見せるのは、こういう気持ちが籠もっているからかもしれない──私にも、そういう気持ちが いくぶんか あることを正直に認めます。こういう気持ちから免れている人たちというのは、ほとんど いないのではないかしら、、、こういう気持ちを除去するように修行している宗教家を除いて。ということは、人が複数 集まれば、かならず、なんらかの 「序列」 が生まれるということですね。

 集合そのものは、構成員が集まっただけで 「並び」 を問わないのですが、それらの構成員のあいだに、なんらかの 「関係」 を導入すれば、「並び」 を構成するということでしょう。その 「関係」 が 「長幼 (経験の修身度)」 なのか、「技術の修得度」 なのかによって 「並び」 が違ってくるということでしょうね。「集合 f (x)」 と 「関係 f (x, y)」 を数学的に知っていれば、「並び」 が 「構成」 になることも自明なことなのですが、人間社会において、その 「並び」 を生む原因として、「じぶんが 幾らかでも他人に比べて マシ である」 ことを信じたがる気持ちを摘発するのが小説家の小説家たる──しかも、第一流の小説家たる──所以 (ゆえん) でしょうね。しかも、小説家は、そういう人間様相に同感しながらも、数学者のように、「冷徹な」 目で観ている。というのは、渦中に どっぷり浸かっていたら 「報告文」 にはなっても 「小説」 にはならないのでしょうね。そして、「冷徹な」 目で観ても、共感がなければ、「作文」 になっても 「小説」 にはならないのでしょうね。

 「集合」 に対して いかなる 「関係 (構成)」 を適用できるか、という汎用的な総括ぐらいなら私のような文学愛好家でも謂えることであって、小説家の小説家たる所以は、人間の 「(生々しい) 危うさ」 を そこに察知している点でしょうね。そして、その洞察力は、年齢を重ねれば──勿論、数多くの体験を積んで、という前提ですが──養われるという訳ではないという点が 「(人間性の) 謎」 でしょう──私は、いま、56歳ですが、三島由紀夫氏が 上述の文を記した年齢は 40数歳なので、私のほうが年長であっても かれに比べて洞察力がある訳ではないことは明らかです。ただし、データベース 設計であれば、私のほうが上 (優位) であることは確かです。私は、ふだんの生活において、年配の人たちに敬意を払うほうですが、仕事において、「長幼の序」 を認めないし、認める必要も感じていない。システム・エンジニア にとっては、いかなる 「技術」 を持っているか [ 勿論、駆使できるか ] が存在証明であって、それ以外の性質は付随的でしかない。おや? 「反 コンピュータ的断章」 のなかで綴るような文になってきたなあ (笑)。

 
 (2009年 8月23日)


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