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Let us, then, do our best to receive that rest,... (Hebrews 4-11)

 



 三島由紀夫氏 は、かれの著作 「若き サムライ のために」 のなかで、「努力」 について以下の文を綴っています。

     私はむしろ、何が楽であり何が努力であるかということのけじめを
    つけたいと思うのである。人間は、場合にとっては、楽をすることの
    ほうが苦しい場合がある。貧乏性に生まれた人間は、一たび努力の
    義務をはずされると、とたんに キツネ がおちた キツネ つきのように、
    身の扱いに困ってしまう。何十年の間、会社や役所でじみな努力を
    重ねてきて、そこにだけ自分の生き方の モラル を発見していた人は、
    定年退職となると同時に、生ける屍 (しかばね) になってしまう。
    われわれの社会は、そういう残酷な悲劇を、毎日人に与えている
    のである。そして、その人たちは庭の植木いじりや無害な道楽に
    余世をおくることを楽しみにしているふりをしているが、彼らにとって
    は、努力を失った人生の空虚というものに、ほんとうに対処する
    すべを知らないので、また別のむだな努力を重ねて、死ぬまで生き
    たいと思うわけである。しかし、実は一番つらいのは努力すること
    そのことにあるのではない。ある能力を持った人間が、その能力を
    使わないように制限されることに、人間として一番不自然な苦しさ、
    つらさがあることを知らなければならない。

 上の文に対して、三島氏は、単刀直入な例──百 メートル を九・九秒で走れる人間に対して、九・九秒で走ることを絶対に禁止し、十五秒以下で走ったならば牢屋にぶち込むぞと言ってやったら、そのつらさに耐えかねて発狂するかもしれない、という例──を示して、以下の文を続けています。

    (略) 人間の能力の百 パーセント を出しているときに、むしろ、人間
    はいきいきとしているという、不思議な性格を持っている。しかし、
    その能力を削減されて、自分で できるよりも、ずっと低いことしか
    やらされないという拷問には、努力自体のつらさよりも、もっとおそろ
    しいつらさがひそんでいる。

     われわれの社会は、努力に モラル を置いている結果、能力のある
    人間をわざとのろく走らせることを強いるという、社会独特の拷問に
    ついてはほとんど触れるところはない。そして、われわれの知的能力
    のみならず、肉体的能力も次々と進歩し、少年は十五歳で肉体的に
    おとなになる。しかもわれわれの社会は青年をそのまま、ナマ のまま
    使えるような戦争という機会を持たず、社会には老人支配の鉄則が
    がっちりとはめられ、このような世界で、十秒で走れる青年が、みな
    十七秒、十八秒で走るように強いられている。私は、ここらに、努力
    と建設ということだけを モラル にした、社会のうその反面、人間に
    もっとつらい、もっと苦しいものを強いる、社会の力というものを見出す
    のである。

    (略) なぜなら、いまの世間は青年全体に 「じっくり走れ、そして秩序
    を保ち、おとなの世界に従っていれば、きみたちには必ずいい生活が
    約束される。きれいな奥さんを持ち、子供を持ち、いい アパート も
    世話してやろう。そして、いつかおまえたちにこの社会の支配権を譲り
    渡してやろう。しかし、それにはまだ三十年は待たねばならんよ。
    だから、いまのうちきみらはじっくり勉強して、ゆっくり走るのだ」 と
    いう市民社会的な モラル を押しつけている。(略) しかし、社会全体
    の テンポ が、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る
    人間に早く走ることを要求しているのである。

     一方、百 メートル を駆けるのに、三十秒、いや、一分もかかるよう
    年齢層の、いわゆる管理職の肩には、一人で背負い切れない重荷
    がかかっている。一人でこれを処理するには、ムリ をしてでも、
    百 メートルを十五秒、六秒で、いや、たとえ不可能でも、百 メートル
    を十秒ぐらいで走ることを強いられる。「若いものには危なくって、
    まかせちゃおけない」 からである。
     こうして、自分でも半分いい気になりながら、人生はとにかく努力
    努力、若い者に見習わせなきゃならん、と死物狂いの生活をつづける
    うちに、たちまち心臓 マヒ や脳溢血で倒れてしまうのである。

 上に引用した文を かれが綴った当時 (昭和 44年頃、すなわち 1969年頃) には、日本は高度成長期の最中にあって、いっぽうで、いわゆる 「学生運動」 が盛んで社会 (東京都のいちぶ、あるいは、全国の高校・大学の多く) が騒然としていた頃です──三島氏は、東京大学の全共闘連中と直接討論をやっていました。私は 16歳で、高校生になったばかりの頃で、富山県に住んでいました。

 さて、上に引用した意見──「社会全体の テンポ が、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く走ることを要求しているのである」 という意見──が、当時、独創的だったのかどうか [ 新しい視点を示していたのかどうか ] を私は判断できないのですが、現代では、多くの人たちが口にする月並みな意見でしょう。現代風に言えば、「製品として均等な品質を生産するための大量生産的な製造法を人間に対しても適用している制度」 となるのかもしれない。そして、いっぽうでは、当時、「受験地獄」 という ことば もあって、「将来、社会のなかで 『出世の確約』 を取りつけるためには」 「一流校」 に入って卒業することが条件とされていて、就職説明会では、「しかじかの大学 [ 一流校 ] の学生としか面談しない」 という いわゆる 「指定校」 が堂々と会場入口に貼られていた馬鹿げた時代でした。正義感に溢れている青年であれば、そういう社会に対して 「怒り」 を感じないほうが奇怪 (おか) しいでしょうね。

 当時から 40年たった今、the Internet が出現して、テクノロジー が進んで、次々と生み出される テクノロジー を若者たちが使いこなして、年配の人たちが その テクノロジー を catch up できなくなってきて、「社会には老人支配の鉄則が がっちりとはめられ」 た状態は、「或る程度」 崩壊してきたようです──年配の人たちが誇っていた 「経験・知識の豊富さ」 は、10年間の耐用年数もない状態になったようです。テクノロジー に対する適応力が ひとつの篩 (ふるい) になっているようです。そして、いっぽうで、テクノロジー が生活を機械化・均質化するにつれて、生活も 「マニュアル」 化されて、「手続き・規則」 に従っていれば確実な便益を享受 (きょうじゅ) できるという風潮が蔓延しているようです。「手続き」 にさえ従っていれば、失敗しない、と。この 「手続き」 化は、昭和 44年に三島氏が指弾した 「社会全体の テンポ が、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く走ることを要求している」 状態を機械化した バージョン にすぎないのではないかしら。しかも、「努力」 を省いて便益を与えるのが機械化・自動化なのだから、機械化・自動化された手続きが便益を与えてくれるという場・機会が増えれば増えるほど、「努力」 などいらない──「努力」 を前提にしない──状態が生活のなかで占める割合は大きくなってゆくでしょう。そういう生活が ふつうになった社会で、「努力は生長の糧だ」 といっても空語 (あるいは、古い人生訓) としてしか響かないでしょうね。

 そして、機械化・自動化のなかで人間に委ねられている判断は、「手続き (規則) を遵守しているかどうか」 を検査するくらいの単純な判断であって、その判断では、高度な思考力など前提にされていないという錯覚が起こるようです。たとえば、「規則」 として 100 という数値が default とされている場合に、99 という実際値が起こったとき、標準値 (default) と実際値を対比して、実際値を reject することは至極簡単な行為でしょう。しかし、そういう規則のなかで、99 という近傍を accept するという判断をすれば、判断したひとは規則を破ったことになるでしょうね。もし、default に対して、「上限下限 (許容値)」 を導入しても同じ現象が起こるでしょう──すなわち、「上限下限」 として ± 10% を認めたときに、89 は reject されるのかどうか、、、。「努力」 を示すために 「数値目標」 が ワンパターン (stereotyped、the same old way) のように導入されていますが、近傍に対する判断は極めて難しい。近傍に関する通俗的な喩え話として 「ゆで蛙」 が多々 引例されています──水のなかに蛙を入れて、水を少しずつ熱してゆけば、蛙は、水温の少しの上昇に適用してしまうので、変化が少しずつ起こっても感知できないで、水温の少しずつの変化が重積して ついには高温 (boiling water) のなかで蛙は死んでしまうという喩え話です [ でも、蛙は、皮膚で耐温限界点を感じたら、温水から飛び出すのではないでしょうか (笑)、、、私は実験したことがないので確認していないけれど ]。

 地道に (すなわち、少しずつ) 「努力」 を重ねれば、ひとつの おおきな ちから になる── Penny and penny laid up will be many ──ということを私は否定しないし、寧ろ、そう信じているほうですが、はたして、現代では、「自戒」 を超えた普遍な人生訓 [ 年配のひとが若いひとに与える教訓 ] になるのかどうか は怪しいのではないかしら。

 なお、三島氏の謂う 「早く走れるひとが おそく走らなければならない」 状態というのは、現代では、当時に比べて だいぶん除去されてきて、「早く走れるひとは早く走ればいい」 という在所を造ることができるようになったのですが、それでも、「組織を離れなければならない」 ことを前提にしなければならないでしょうね。「組織を離れる」 ことが昔に比べて やりやすくなったというだけのことです──そして、「組織を離れる」 ことは、いっぽうで 「既成の」 組織と仕事上戦うことになって、辛い戦いになるでしょう [ 早く走れるひとが思い通りに早く走れる訳にはならない ]。そして、その辛い戦いのなかで、「努力」 ということを──早く走るためには、やっぱり、日々の努力を重ねなければならないことを──痛感するでしょう。

 
 (2009年 9月 1日)


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