小林秀雄氏は、かれの著作 「様々なる意匠」 を以下の文ではじめています。
吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つと
して簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与え
られた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔
ながらの魔術を止めない。(略)
私は、ここで問題を提出したり解決したりしようとは思わぬ。
私は、ただ世の騒然たる文芸批評家等が、騒然と行動する
必要のために見ぬ振りをした種々な事実を拾い上げたいと
思う。私は、ただ、彼らが何故にあらゆる意匠を凝らして
登場しなければならぬかを、少々不審に思うばかりである。
私には常に舞台より楽屋の方が面白い。このような私にも、
やっぱり軍略は必要だとするなら、「搦手 (からめて) から」、
これが私には最も人性論的法則に適 (かな)った軍略に
見えるのだ。
「様々なる意匠」 は、雑誌 「改造」 の懸賞評論で第二席に入選した作品です──ちなみに、第一等に選ばれた作品は、宮本顕治の 「敗北の文学」 でした。そして、「様々なる意匠」 は、小林秀雄氏が文芸批評家として立つ出発点になった作品です。小林秀雄氏の作品群のなかで、「様々な意匠」 は私の大好きな作品の ひとつです。
さて、上に引用した文は、かれの独特な文体に眩惑されたら、かれの批評の やりかた が いわゆる 「印象批評」 であるような感を与えますが──私は、若い頃 (20歳代の頃)、そういうふうに感じましたが──、かれの著作を多数読めば、実際は逆であって、西洋近代精神の 「理知」 を基底にした 「批評行為の明晰な意識化」 を貫いています。前期の作品群と後期の作品群では、批評対象が全然違ってくるのですが──後期作品群では、「日本の古典」 を対象にして、批評のしかた は、荻生徂徠・本居宣長からの影響が強く出てくるのですが──、前期の作品群で見られた 「作者の宿命の主調低音をきく」 という精神は、後期の作品群でも、荻生徂徠流の 「格物致知」(注意) という視点で貫かれています。対象の 「主調低音をきく」 という態度は、前期では、たぶん、ヴァレリー 氏の影響だったのでしょうが、小林氏の批評行為のなかで常に前提に置かれています。
対象の 「主調低音をきく」 ためには、「意匠」 を凝らした作為を剥ぎ取って、そのもの の 「生の」 状態 [ 事実 ] を鷲掴みにするしかないのであって、その やりかた を 小林氏は 「搦手」 と謂っているのでしょうね。私は、かれの批評行為の やりかた に対して とても共感を覚えます。そして、私の やりかた も同じです。
「様々なる意匠」 は、以下の文で締め括られています。
私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようと
したので決してない。ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎない
ために、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。
書き出しに対して、やや パラドクシカル な終わりかたですね。でも、パラドックス にはなっていない点が この エッセー を貫いている思想なのです──つまり、一つの意匠に収めきれないほど人生は豊富である、ということ。それが 「個体」 の生きる事実であるということです。いくつかの キーワード で事実を割り切ってしまうこと (あるいは、人生をわかったつもりになること、あるいは、人生を見通していると装うこと) を かれは常に嫌悪しています。
(注意) 朱子学で謂う 「物の道を極めて、知識を高める」 ことではなくて──徂徠は、それを 「格物窮理」 というふうに非難していて──、徂徠の意味では 「物そのものが来る」 ということ。
(2009年 9月16日)