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...when he had a vision, in which he clearly saw... (Acts 10-3)

 



 小林秀雄氏は、かれの著作 「様々なる意匠」 で以下の文を綴っています。

    だが、批評の方法が如何に精密に点検されようが、その批評が
    人を動かすか動かさないかという問題とは何んの関係もないと
    いう事である。例えば、人は恋文の修辞学を検討する事によって
    己れの恋愛の実現を期するかも知れない。しかし斯 (か) くして
    実現した恋愛を恋文研究の成果と信ずるならば彼は馬鹿である。
    あるいは、彼は何か別の事を実現してしまったに相違ない。

     かつて主観批評あるいは印象批評の弊害という事が色々と
    論じられた事があった。しかし結局 「好き嫌いで人をとやかく
    言うな」 という常識道徳のあるいは礼儀作法の一法則の周 (まわ)
    りをうろついたに過ぎなかった。あるいは攻撃されたものは主観
    批評でも印象批評でもなかったかも知れない。「批評になって
    いない批評」 というものだったかも知れない。「批評になって
    批評の弊害」 では話が解りすぎて議論にならないから、という
    筋合いのものだったかも知れない。

    彼(参考)の魔術に憑 (つ) かれつつも、私が正しく眺めるものは、
    嗜好の形式でもなく尺度の形式でもなく無双の情熱の形式を
    とった彼の夢だ。それは正 (まさ) しく批評ではあるがまた
    彼の独白でもある。人は如何にして批評というものと自意識と
    いうものとを区別し得よう。彼の批評の魔力は、彼が批評する
    とは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の
    対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事
    ではない。批評とは竟 (つい) に己れの夢を懐疑的に語る事
    ではないのか!

     ここで私はだらしのない言葉の乙 (おつ) に構えているのに
    突き当る、批評の普遍性、と。だが、古来如何なる芸術家が
    普遍性などという怪物を狙 (ねら) ったか? 彼らは例外なく
    個体を狙ったのである。あらゆる世にあらゆる場所に通ずる
    真実を語ろうと希ったのではない、ただ個々の真実を出来る
    だけ誠実に出来るだけ完全に語ろうと希っただけである。(略)
    文芸批評とても同じ事だ。批評はそれとは別だという根拠は
    何処にもないのである。最上の批評は常に最も個性的である。
    そして独断的といいう概念と個性的という概念とは異なるの
    である。

 
 「様々なる意匠」 は、かれが文芸評論家として立つ起点になった著作で、しかも その著作の初めのほうで綴られた 「批評の在りかた」 に関する以上の文は、以後、かれの晩年の大作 「本居宣長」 に至るまで一貫して かれの批評態度になっています。

 芸術作品は──そして、たぶん、数学や哲学も──「このひとを観よ」 としか謂いようのない対象でしょうね。作品は、芸術家の 「独白 (あるいは、自覚)」 でしょうね。そして、作品──あるいは、(作品とするための) 対象──は、「己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない」 のかもしれない。というのは、複数の芸術家が たとえ同じ対象を描いたとしても、それぞれの芸術家が構成する像 [ 作品 ] は違っているし、しかも、ひとりの芸術家の作品群において、べつべつの作品のあいだには、明らかに、同じような 「解釈」 (タッチ [ 筆致 ]) が感じられるから。そして、そう感じたときに、われわれは 「罠」 に陥るようです。すなわち、しかじかの芸術家の かくかくの 「筆致」 を その芸術家の特徴点として 「客観的に総括して」、作品そのものを凝視しない罠に陥るようです。喩えれば、料理において、献立と調理法を知ったからと云って、実際の味を満喫できる訳ではないという簡単な事実を忘れてしまう。小林秀雄氏は、この罠を見事な一言で撃ち抜いています──「美しい花がある。『花』 の美しさという様なものはない」と。そして、「この事実の発見には何らの洞見も必要としない。人々は ただ生意気な顔をして作品を読まなければいいのである」 と。

 
 (2009年 9月23日)


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