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Stop your doubting, and believe! (John 20-27)

 



 小林秀雄氏は、かれの著作 「様々なる意匠」 で以下の文を綴っています。

     私には文芸評論家たちが様々な思想の制度をもって武装して
    いることを兎 (と) や角 (かく) いう権利はない。ただ、
    鎧 (よろい) というものは安全ではあろうが、随分重たいもの
    だろうと思うばかりだ。しかし、彼らがどんな性格を持ってい
    ようとも、批評の対象がその宿命を明かすまで待っていられ
    ないという短気は、私には常に不審な事である。

 「思想の制度」 というのは謂えて絶妙ですね。「思想の制度」 とは、「文芸評論家という職を維持し運営してゆくための決まり (あるいは、しくみ)」 ということでしょうね。そういう 「制度」 が確立された領域には、文芸評論家以外の人たちが なかなか 参入できないので 「制度」 が 「武装」 のごとく作用するのかもしれない。小林氏は、(そういう 「制度」 に対して) 「兎や角いう権利はない」 と謂いつつも、「思想」 に対して 「制度」 という ことば を使っっているので、勿論、小林氏が、そういう 「しくみ」 を嫌っている (あるいは、皮肉っている) ことは確かでしょう。

 「思想の制度」 に対峙するのが 「批評の対象がその宿命を明かすまで待つ」 という態度でしょうね。説明の順が逆になりますが──というか、私は、意図的に、前後を逆にしたのですが──、小林氏は、上に引用した文の 「前に」、以下の文を綴っています。

     芸術家たちのどんな純粋な仕事でも、科学者が純粋な水と
    呼ぶ意味で純粋なものはない。彼らの仕事は常に、種々の
    色彩、種々の陰翳 (いんえい) を擁して豊富である。この
    豊富性のために、私は、彼らの作品から思う処を抽象する事
    が出来る、と言う事はまた何を抽象しても何物かが残ると
    いう事だ。この豊富性の裡 (うち) を彷徨 (ほうこう) して、
    私は、その作家の思想を完全に了解したと信ずる。その途端、
    不思議な角度から、新しい思想の断片が私を見る。見られた
    が最後、断片はもはや断片ではない。たちまち拡大して、今
    了解した私の思想を呑んでしまうという事が起る。この彷徨
    はあたかも解析によって己れの姿を捕えようとする彷徨に
    等しい。こうして私は、私の解析の眩暈 (げんうん) の末、
    傑作の豊富性の底を流れる、作者の宿命の主調低音をきく
    のである。この時私の騒然たる夢はやみ、私の心が私の
    言葉を語り始める、この時私は私の批評の可能を悟るので
    ある。

 ここに綴られている批評の契機こそ、小林氏の批評の ありかた を余すことなく正確に記していると私は思っています。すなわち、小林秀雄氏の批評の やりかた が ここに記されている、と。こういう やりかた が、はたして、印象批評・主観批評なのかどうか、、、一見、そういうふうな批評に感じるのですが、そうではない。かれは、明晰な 「解析」 を使っています。そして、いっぽうで、かれは、「(作品・作家の) 豊富性」 「(宿命の) 主調低音」 という語を好んで多々使っています。「豊富さ」 を或る観点から抽象しても、その抽象は一側面でしかないし、もし、たとえ、その抽象が よしんば 「重立った特徴」 であったとしても、かならずしも、「(作家の宿命の) 主調低音」 であるとは謂えないでしょうね──否、「重立った特徴」 は 「特徴」 であるが故に、それの底を流れる 「主調低音」 ではないでしょう。

 勿論、作品を 「理解」 するためには、「解析」 の やりかた を使わざるを得ないのですが、小林氏の言うように、「解析の眩暈の末」、「作品のほうから来る (すなわち、徂徠流の 『格物致知』)」 まで じっくりと 一対一で [ 作品を ひとつの個性として ] つきあわなければ、「主調低音」 を聴くことはできないでしょう。それが、作品 (および、それを理解した私の思想) を 「解析」 しつつも 「解析」 仕切れない限界点において、 「新しい思想の断片が私を見る」 という現象でしょうね──「私」 が見るのではない。そして、こういう やりかた が、前回 引用した 「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない」 という記述と対応しています。亀井勝一郎氏も、同じような意見を述べていて、亀井氏は 「招魂」 という ことば を使っています。

 本 ホームページ 「思想の花びら」 で、フルトヴェングラー (20世紀の伝説的指揮者) の以下の ことば を引用しましたが、小林秀雄氏の批評法と通ずる点があります。

   全体を砕いて溶解し、またそれによって、私たちの音楽の
   場合を形象的に言えば、始源的な心的状況を再創造する、
   言わば創造に先行する混沌を再建し、その中からはじめて
   全体を新たに造形し直す、ただそれだけが作品を本源の
   形体において再現し、真に新しく創作することを可能に
   するでしょう。

 小林秀雄氏・亀井勝一郎氏の やりかた や、フルトヴェングラー 氏の やりかた が浪漫的で 「古い」 やりかた だと思う人たちがいるかもしれないのですが、人から生まれた物を人の精神に戻すには、この やりかた をおいて他にない、と私は思っています。

 
 (2009年10月 1日)


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