小林秀雄氏は、かれの著作 「様々なる意匠」 で、当時、文壇を席巻していた 「マルクス 主義文学」 を まず 検討対象にしています。そして、政策論的意匠と芸術論的意匠を対比しながら検討を進めています。その対比は、以下の文で切り出されています。
ギリシア の昔、詩人は プラトン の 「共和国」 から追放
された。今日、マルクス は詩人を、その「資本論」 から追放
した。これは決して今日 マルクス の弟子たちの文芸批評中で、
政治という偶像と芸術という偶像とが、価値の対立について
鼬鼠 (いたち) ごっこをする態 (てい) の問題ではない。
一つの情熱が一つの情熱を追放した問題なのだ。或る情熱は
或る情熱を追放する、しかし如何なる形態の情熱もこの地球の
外に追われる事はない。
私は、この文を読んで 直ぐさま 三島由紀夫氏を思い起こしました。そして、三島氏が かれの 「文学評論集」 で使った文体は、小林氏の この文体に似ていると私は感じました。「政治という偶像と芸術という偶像とが、価値の対立について鼬鼠 (いたち) ごっこをする態 (てい) の問題ではない。一つの情熱が一つの情熱を追放した問題なのだ」 という記述は、まさに、三島氏の人生行路だったのではないでしょうか──勿論、三島氏は 「反 マルクス主義」 だったし、「政治の情熱が芸術の情熱を追放する」 までの折節には、「知性と肉体との兼掌」 とか 「(日本文化の) 伝統」 などの要請的条件が絡んでいましたが。
さて、小林氏は、まず、「プロレタリヤ のために芸術せよ」 と 「芸術のために芸術せよ」 という ことば を俎上に載せています。そして、かれは、「こういう言葉は修辞として様々な陰翳を含むであろうが、竟 (つい) に何物も語らない」 と切り捨てています。というのは、「芸術家にとっては、どちらにしても同じように困難な事である」 から、と。そして、芸術家の 「精神」 とは、どういう性質なのかを説明する前に、小林氏は、ふたつの概念を検討しています──ふたつの概念とは、「観念と意識」 および 「意識と現実」。
小林氏は、マルクス の ことば 「意識とは意識された存在以外の何物でもあり得ない」 を引用して、およそ あらゆる観念学は人間の意識に 毛頭 その基礎を置かないし、観念学は つねに その人の全存在にかかっている、と述べています──「観念学を支持するものは、常に理論ではなく人間の生活の意力である限り、それは一つの現実である。或る現実に無関心でいる事は許されるが、現実を嘲笑する事は誰にも許されてはいない」 と。つまり、作品には、作家の面持ち (生活の意力) が現れている、ということ。この意識は、小林氏の作品のなかで、つねに主調低音になっており、小林氏の性質的特徴である 「逞しさ」 を醸していると私は思っています。そして、かれは、「生々しい観念」 の作用を以下のように見事に記述しています。
卓 (すぐ) れた芸術は、常に或る人の眸 (まなざし) が心を
貫くが如き現実性を持っているものだ。人間を現実への情熱に
導かないあらゆる表象の建築は便覧 (マニユエル) に過ぎない。
人は便覧 (マニユエル) をもって右に曲がれば街へ出ると教える
事は出来る。しかし、坐った人間を立たせる事は出来ない。人は
便覧 (マニユエル) によって動きはしない、事件によって動か
されるのだ。強力な観念学は事件である。強力な芸術もまた
事件である。
さすがに、第一級の批評家の視点・文体は見事ですね。
この事件 (芸術という事件) に対して、なんらかの 「目的」 を冠頭において、事件を 「利用する」 ことができるでしょう。たとえば、「時代意識を持て」 と。小林氏は、「『プロレタリヤ 運動のために芸術を利用せよ』 と、社会運動家たちが、その運動のために芸術という事件を利用せんとするのは悧巧 (りこう) である」 と述べています。同様に、戦争時において芸術を利用することもできるでしょう。ちなみに、小林氏は、昭和 21年、「戦争責任者」 として批判されています──「様々な意匠」 において、「芸術が利用される」 ことを明晰に見て取っていた小林氏が 「戦争に荷担する」 批評を積極的に綴るとは私には思えないのですが、、、。小林氏が 「戦争責任者」 であったのかどうか という点を私は調べたいと思っているのですが、いま、私の興味は、もっぱら、かれの作品に向いているので、「戦争責任」 について調べる余力がない。ちなみに、20世紀の伝説的指揮者 フルトヴェングラー 氏も 「戦争責任」 を問われていました。
さて、本題に戻って、小林氏は、「時代意識は自意識より大き過ぎもしなければ小さすぎもしない」 と述べています。というのは、小林氏によれば、「如何なる時代もその時代特有の色彩をもち音調をもつものだ。しかしそれはあくまでも色彩であり音調であって、吾々が明瞭に眺め得る風景ではない。吾々の眼前に明瞭なものは、その時代の色彩、その時代の音調の生んだ様々な表象の建築のみである。世紀がその最も生ま生ましい神話を語るのは、吾々がその世紀の渦中にあって最も無意識に最も溌剌と行動している時に限る」 から。
われわれが感じる 「時代の雰囲気」 は 「風景」 ではないのであって、「時代の雰囲気」 が 「事実」 として記述されるためには、それぞれのひとの意識に表れる形を外的に構成するしかないでしょう。たとえ、意識のうえに なんらかの像が浮かんだとしても、「構成されない」 表象は、「事実」 にはならない。小林氏は、この点を、以下のように見事な一文で撃ち抜いています。
スタンダアル はこの世から借用したものを、この世に返却した
に過ぎない。
私は、この一文を読んで身震いしました。芸術は──否、芸術に限らず、およそ、ひとが営む しわざ は──、この一言に尽きるかもしれない。道元禅師は、仏法を 「眼横鼻直」 という一言で記述なさいましたが、小林氏の言は、ひとの営み (の 有様) を一言で言い尽くしていると思います。そして、その営みのなかに、芸術では芸術特有の わざ があるし、政治には、政治特有の わざ がある、ということでしょうね。そして、小林氏は、その言を前提にして、以下の文を導いています。
故に、「芸術のための芸術」 とは、自然は芸術を模倣するという
が如き積極的陶酔の形式を示すものではなく、むしろ、自然が、
あるいは社会が、芸術を捨てたという衰弱の形式を示す。
人はこの世に動かされつつこの世を捨てる事は出来ない、この
世を捨てようと希う事は出来ない。世捨て人とは世を捨てた人
ではない、世が捨てた人である。ある世紀が有機体として溌剌
たる神話を有する時、その世紀の芸術家たちに、「芸術のため
の芸術」 とは了解し難い愚劣であろう。ある世紀が極度に解体
し衰弱して何らの要望も持つ事がないとしたらまた芸術も存在
しない。
諸君の精神が、どんなに焦燥 (しょうそう) な夢を持とう
と、どんなに緩慢に夢みようとしても、諸君の心臓は早くも
遅くも鼓動しまい。否、諸君の脳髄の最重要部は、自然と同じ
速度で夢みているであろう。この人間性格の本質を、諸君が
軽蔑する限り、例えば井原西鶴の如き アントロポロジイ の
達人が、諸君を描いて 「当世 (とうせい) 何々気質 (かたぎ)」
と呼ぼうとも諸君に文句はないのである。
この点が、小林秀雄氏の作品群のなかに感じられる 「逞しさ」 の源なのかもしれない。
(2009年10月 8日)